だれかに話したくなる本の話

「西郷どん」の地 薩摩藩の武力増強を可能にしたイノベーティブな試みとは

『明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦! 技術立国ニッポンはここから始まった』(岡田晃著、集英社刊)

「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」が2015年にユネスコ世界遺産登録されたのは記憶に新しい。八幡製鉄所や軍艦島、三池炭鉱、韮山反射炉といった施設は、日本の近代化の原点であり、「ものづくり大国」「技術立国」の礎である。

ところで、近代化といってイメージできるのは、動力が蒸気機関に変わったり、より高度な製鉄技術が発達したりといったことだが、これらが始まったのはいつだろうか?

嘉永6年(1853年)のペリー来航によって日本の近代化の号砲が鳴った、というように覚えている人は少なくない。つまり、アメリカに迫られて開国し、海外の技術が日本に入ってくるようになったことが近代化に繋がったという認識だが、これは少し違う。

ペリー来航の50年前から日本の近海には外国船が姿を見せはじめ、各地で紛争が起きていた。こうした異国との摩擦から危機感を持った藩もあり、こうした藩では自己防衛の手段として蒸気機関の開発や製鉄所の敷設が独自になされていた。ペリー来航は各藩が感じていた危機感に拍車をかけた出来事にすぎない。

明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦! 技術立国ニッポンはここから始まった

明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦! 技術立国ニッポンはここから始まった

「日本の奇跡」と言われる明治の産業革命の礎は、幕末のサムライたちによって準備されていた。製鉄、造船、石炭産業の現場では、藩の垣根を超えて技術を共有し、奮闘する人々の熱いドラマがあった!

製鉄のもととなった伊豆の反射炉の技術は、佐賀藩と伊豆の代官・江川英龍が協力して研究が始まり、佐賀から薩摩へ、さらに水戸藩を経由し、最終的には釜石の洋式高炉に結実した。それが明治時代に官営釜石製鉄所や官営八幡製鉄所へとさらなる発展を遂げ、現在の新日鉄住金に至る。

造船に関しては、島津斉彬の命を受けて幕府の長崎海軍伝習所で学んだ薩摩藩士・五大友厚は、トーマス・グラバーらと共に長崎の小菅修船場を建設した。これが現在の三菱重工長崎造船所につながっていく。岩崎弥太郎、弥之助、久弥の3代に渡る三菱重工業の社長たちの事業拡大の歴史とも重なる。

“軍艦島“で知られる石炭産業の発展においては、福岡藩士だった團琢磨の働きがめざましく、彼の見識と技術導入へのアイデア、決断力が、石炭産業の多大な発展を促した。

幕末から明治の激動の時代に、政治の争いとは無関係に、日本の未来を考えて奔走した若きサムライたちや現場の無名の職人たちの、ひたむきさやチャレンジ精神を感じる熱い一冊。