55年前の「読書術」を読んでみたら、驚きの情報収集テクニックが書かれていた
■読んでいない本の中身を知る裏ワザ
先述の“本を読まない「読書術」”という言葉をよくよく噛みしめてみると、いくつかの意味を含んでいることに気づくのではないか。
先述の「読書の目的をはっきりさせ、本当に読むべき本を見極める術」という意味にもとれるし、「読まず本の中身を知る方法」という意味にも受け取れる。どちらも含めて“本を読まない「読書術」”なのだ。
実際、本の内容というのは、読んだ人と会話することでかなりの部分が得られる。
「〇〇の本がおもしろかった」という人については、そのまま先を促せば本の内容について詳しく話してくれるだろう。そして「〇〇の本はつまらなかった」と語る人はより饒舌だ。
「つまらなかった」という人に対して、「でも私(僕)は興味があるな」と言えば、相手は「つまらなかった理由」をさらに詳しく説明せざるを得なくなる。その説明について相槌、相の手を入れていけば、どんどん本の内容に深入りしていくだろう。
本書によると、ポイントは、**「そうとばかりも言えないと思うけど」「それはどうかしら」**と、漠然としつつやや懐疑的な相の手を入れること。
こう言うと、相手は言葉が足りなかったか、論拠が乏しかったか、いずれにしても、自分の説明が不足していると感じるのだという。そして、さらに詳しく、本の話をしてくれるというわけだ。
「会話から読んでいない本の内容を引き出す」ということで、何となく納得させられた気になるが、しかしツッコミを入れずにもいられない。これは「読書術」ではなく「会話術」ではないか。
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そして、“本を読まない「読書術」”にはもう一つ「読んでいないのに読んだふりをする技術」という意味合いがあることも付け加えておきたい。
知ったかぶりは悪とされているが、本書では「“読んだふり”は大切なこと」として肯定する。
考えてみれば、読んでいない本について読んだかのように語るというのは、なかなかに知的な営みではないか。
本書は、わかりもしない本をわかったかのように語ることを「スノビズム」(俗物根性)、正直に読んでいないと認めることを「ドーセバカイズム」(どうせバカですよ、の意)としたうえで、文化活動において好ましいのは「スノビズム」だとしている。
文化的生活には「知的背伸び」が不可欠、ということか。
とかく正直さが求められる今の世の中。「知」についてのこのあたりの考え方にも、時代の差は表れるようである。
(新刊JP編集部・山田洋介)