現存する日本最古の史書『古事記』に潜む「本当の著者は誰か?問題」への新解答
歴史のベールに覆い隠された謎は、古くから多くの人々を惹きつけてきた。現存する日本最古の史書とされる『古事記』もまた、古代日本を読み解く貴重な資料であるとともに、多くの謎を残した書物である。
『古事記の秘める数合わせの謎と古代冠位制度史』(牧尾一彦著、幻冬舎刊)は、『古事記』の本文中に頻出する「数合わせ」に注目し、この書物の書かれた真の目的と意図に迫る。
『古事記』は何のために、誰によって書かれたのか。そしてそこに含まれる「寓意の構造」とは何なのか。著者の牧尾一彦さんにお話をうかがった。その後編をお届けする。
■現存する日本最古の史書『古事記』に潜む「本当の著者は誰か?」問題
――本書を読むと、たとえば「景行天皇が自分の玄孫を妻にして子どもをもうけた」というエピソードは、書かれた当時からしても「現実にはありえない話」であるという指摘があります。これらはあえてありえない記述を作った、ということでしょうか。
牧尾:その通りです。孝霊天皇以降の天皇系譜はそれ以前の系譜や神話とは異なり、ほぼ実系譜をもとにした系譜であろうと考えられますが、その中で、景行天皇の最後の皇子について現実にはあり得ない系譜を意図的に虚構して、この景行天皇の最後の皇子に大友皇子の寓意を掛けつつ、これを疑問符の付く皇子としています。
すでにお話しした通り、景行天皇には7人の妻が挙げられており、最初の妻の子が5皇子であり、次に2番目以降の妻の男子のみを数えると、順に3人、1人、2人、1人、2人、1人の順であり、全部で10皇子ですが、最後の妻は景行天皇の玄孫にあたる女性ですので、およそ信じがたい妻であり、その所生になる皇子には疑問符が付くことになってこれを除くことになるため、ここに「10引く1は9」という数合わせが生じます(「引く1」が大友皇子を除く寓意です)。
この数合わせは、お話した通り他にも仕組まれている数合わせです。古事記はこうした数合わせを仕組むために意図的にあり得ない妻を作ったのです。景行天皇系譜には9の2・1・2・1・3分割も仕組まれていることはこれも述べた通りです。この分割を構成するために、古事記は景行天皇の妻の幾人かを「妾」という形で虚構し、その子として別妻の子から寄せ集めた子を配しています。景行天皇の系譜が日本書紀の系譜と大きく異なっているのは、こうした古事記流の虚構のためです。寓意を構築するために、古事記は天皇系譜さえ道具にし、その改竄も厭いません。
――古代の冠位制度も本書のテーマです。そもそも序節で指摘された数々の「数合わせ」自体が冠位制度に基づいて工夫されているとされていますが、これはどんな目的で行われたものなのでしょうか。
牧尾:主たる目的は、古事記神話の構造に国家体制の脊梁である冠位官僚制度を、寓意を以ってその骨組みとして仕組み、以て古事記神話に密かな権威を呪定しようとしたのであろうと考えています。
また逆に、その冠位制度によって寓意の構造を明確にしようとしたとも考えられます。大年神の系譜によって、二人太子制度下の近江令冠位制度(諸王五位・諸臣九位冠位制度)を寓意せしめたのはその一例でしょう。これによって大年神に大友皇子の寓意があり、その妻に十市皇女の寓意のあることが、相補的に保証される仕組みになっています。
これらの寓意の構造を知ることで、我々は、逆に古代冠位官僚制度の真相を窺うことができます。たとえば、近江令冠位官僚体制が諸王五位・諸臣九位冠位制度を骨格とするものであったことを確認できるとともに、この近江令冠位官僚体制が大宝令官位官僚制度の祖形として壬申乱前に既に完成されたものであったことを推測することができます。
しかも明確になったこの近江令冠位制度に潜む思想性を、推古朝以来の冠位制度史の中で考察することによって、大化年間以降の改新政治が、庶民階層、つまり百姓階層に冠位官僚制度の門戸を広く開き、その速やかな地位の向上に資するべく大いに意を用いたであろうことを推測できます。これは無産哲学者集団ともいうべき学者・僧侶らを朝廷政治のブレインとし、班田収授を全国に行き渡らせ、氏姓(うぢかばね)制度からの脱却を図りながら、鐘匱の制によって庶民の声に耳を傾けようとし続けた改新政治の求めた制度として整合性を持つ冠位官僚制度であったと考えられます。
――最後に本書の読者の方々にメッセージをお願いいたします。
牧尾:漢字だけから成る読みにくい引用文の多い拙著のようなものを読むコツは、取りあえず引用文の前後の文を読んで凡そを把握することです。初めはこまごまとした引用文を全て理解しようとはなさらない方がよいと思います。引用文の一々にかかずらっていますと、2ページほどでもう読みたくなくなる可能性が高い(笑)。わかり易い部分のみ斜めに読み進めて、気楽に付き合ってみて下さい。目次を一読して結論部分から読み始めるのも一案です。
本書の第4節の補論2では、神生み神話における、古来有名ないわゆる35神問題に対して、寓意の構造論による解答を与えています。本論とも密接に関係する補論ですが、35神問題に関心のある方には面白いところではないかと思っています。
この神生み神話に古代国家の政治の中心課題であった戸籍制度が利用されているのは、これまた神話の構成に国家政治の中心的要素を含ませて、神話に密かな権威を呪定しようとしたものと考えられます。
古事記の数合わせの謎を論じた一方で、拙著の今一つの大切な主題は、壬申乱前後の政治史の真相の解明でした。乱後の時代つまり天武朝とは、乱前代に6年毎に粛々と施行されていた頭別戸籍を造ることも、これに基いて実施されていた班田収授も共に中止してしまい、庶民を一挙に借稲地獄・子売り地獄へと突き落として愚民化政策を進めた時代であったことを指摘し、天武朝政治を厳しく断罪しました。天武朝政治に対して拙著の下した断罪は、天武朝を古代律令制の一つの完成期であると信じていた従来説にとっては、意外な、厳しすぎる断罪となっているかもしれません。しかし、かく断罪した事情は拙著に縷々述べた通りですので、ご理解のほど願いたいと思います。
また、この本では、古事記のゴーストライターの最も有力な候補として、稗田阿礼(ひえだのあれ)そのひとを挙げています。太安萬侶による「勅語の旧辞」=原古事記(実は現古事記にほとんど同じ)の清書に際して、分注の勝手な削除・追加、誤系譜・誤集計の修正、誤字・脱字の勝手な修正・補足などを全て厳しく禁じ、異体字の一々にも目を配るように要請して正確な「清書」を徹底させることのできた人物は稗田阿礼しかいなかったでしょう。みずからが勘案・構成した寓意の構造が破れないように、それとは知らぬ太安萬侶に細心の注意を払わせることができたのは、太安萬侶につききりで清書させた稗田阿礼を措いて他にはいません。
古事記には多臣氏=太朝臣氏の父祖とされる神八井耳命の説話のように、太安萬侶家にとっては余り名誉にならぬ話すら含まれており、安萬侶はこれさえ正確・実直に写し取らざるを得なかったようです。安萬侶の墓誌が古事記に全く触れていない一因ではなかったかと考えられます。そもそも安萬侶は古事記について手柄にできるようなことを、的外れな序文を書いた以外、何一つ成してはいないのです。それに、意図的誤字や意図的誤計算、意図的錯簡すら含む古事記自体、当初あまり評判はよくなかったのではないかと思われます。その責を負ったのはもちろん安萬侶だったでしょう。意図的誤字・脱字・錯簡・誤集計・不思議な分注などの意図を知っていたのは稗田阿礼のみだったはずです。
この本の中では言及していませんが、仁徳天皇段に、日女嶋(ひめじま)に鴈が卵を産んだという瑞祥の意義を問われた建内宿祢(たけのうちのすくね)が「阿礼(あれ=我)こそは よのながひと」(我こそは、世の中の長寿の人)という一句を含む歌(仁徳天皇段の72番歌)を返す場面があります。こんなところに古事記のゴーストライターの署名が隠されています。30代半ば前であったはずの当時の阿礼が、自らの長寿を祈念してあつらえた歌句であったと推測できます。
稗田阿礼はおそらく天武天皇の即位の年(天武2年紀。この年は実は拙著第3節のⅣに述べた通り、旧癸酉年・674年)の頃に28歳で古事記編纂を命じられたと思われますが、拙著第1節にも触れましたように、天武10年紀国史の編纂が始まる前までには古事記をほぼ書き上げていたはずです(天武10年紀は実は本来の天武9年・旧庚辰年・681年。阿礼35歳ごろ)。
然るに阿礼はおそらく天武朝で賜姓にも与らず、古事記編纂の功績に対して特別に報いられた様子もありません。古事記の一々を吟味してみれば、その理由が分かるような気がします。大海人皇子の寓意を秘める天照(アマてらす)大御神という女神を皇祖の中心に据える一方で、寓意の構築を執拗に追究するあまり、意図的誤字・脱字・錯簡・誤集計のみならず、天皇の事績をないがしろにするかのごとき部分すら少なくありません。
稗田阿礼というカバネを付けぬ名乗りは、恐らく阿礼自身が求めたものではなかったでしょうか。和銅4年、65歳ほどになっていた阿礼が今更のように振り返ってみれば、壬申乱前代とは、猨女君という弱小氏族の出であった阿礼を、その才能によって大海人皇子の舎人に抜擢した時代でした。他方で才能より氏素性が重視されるようになった天武朝において、自己責任もあろうとはいえほとんど出世の道のない境遇に甘んじていたらしい阿礼の、古事記完成後30年におけるささやかな矜持の発露が、この「稗田阿礼」という自称であったのではなかったか、というのが目下の筆者のささやかな憶測です。
稗田阿礼の非実在説や、実は女性であった説など、さまざまな説があるようですが、舎人稗田阿礼は確かに実在した人物で、舎人というからには男に違いありません。むしろその稗田阿礼というカバネも何も無い名乗りの裡に、この才能(特別な異能!)溢れる人物の辿った人生の悲哀を感じるのは、筆者だけでしょうか。
そんな古事記作者が、青年時代から壮年時代にかけて作り上げた古事記が語り出してくれる古代の真相に思いを馳せながら拙著をお読みいただければ、古代史はまた独特の斬新な香りをもって蘇ってくれるかもしれません。
(了)