歴史のベールが暴かれる 『古事記』の謎に迫る一冊
歴史のベールに覆い隠された謎は、古くから多くの人々を惹きつけてきた。現存する日本最古の史書とされる『古事記』もまた、古代日本を読み解く貴重な資料であるとともに、多くの謎を残した書物である。
『古事記の秘める数合わせの謎と古代冠位制度史』(牧尾一彦著、幻冬舎刊)は、『古事記』の本文中に頻出する「数合わせ」に注目し、この書物の書かれた真の目的と意図に迫る。
『古事記』は何のために、誰によって書かれたのか。そしてそこに含まれる「寓意の構造」とは何なのか。著者の牧尾一彦さんにお話をうかがった。
■『古事記』にちりばめられた「奇妙な数合わせ」を読み解く
――『古事記の秘める数合わせの謎と古代冠位制度史』は、『古事記』に新しい解釈を与える一冊です。まず本書をお書きになった動機について教えていただければと思います。
牧尾:一昨年に出版した『邪馬臺国と神武天皇』では、古事記の「寓意の構造」論を一部援用しました。その古事記の「寓意の構造」の一端・一側面を示そうとしてこの本を書きました。
たとえば神武天皇の兄、五瀬命(いつせのみこと)が登美毗古なる者に手を射られて崩じる説話では、神武天皇には大海人皇子(天武天皇)が寓意され、五瀬命には大海人皇子の兄である中大兄皇子(天智天皇)が寓意されています。
古事記の中に出てくる「美」という文字は一貫して中大兄皇子を寓意していること、登美毗古の登美は美に登ると解読でき、「美=中大兄皇子を凌駕する」という寓意であること、それゆえに登美毗古が五瀬命を殺す構成になっていることを前著では指摘しました。こうした古事記独特の「寓意の構造」を読み解くことで、古事記説話の虚構性を暴くことができます。
――今回の本では、この「寓意の構造」にさらに深く踏み込んだということですか?
牧尾:そう言えると思います。この「寓意の構造」の一端・一側面を示すものとして、古事記の秘める特殊な数合わせに焦点を絞って論述したものが今回の『古事記の秘める数合わせの謎と古代冠位制度史』です。
また、古事記は「美」字のみならず、音仮名や数字・訓字の数々に独特の寓意を掛けながら物語を編み上げています。その寓意は、壬申乱前後史に依拠しながら構想されたものですが、この「寓意の構造」を可能な限り解明しようとする動機が、私の古事記研究の基本にあります。
――『古事記』のなかの数合わせに注目して読み解くという手法は牧尾さん以前にも試みた方がいるのでしょうか。また牧尾さんが数合わせに注目されたきっかけについて教えていただければと思います。
牧尾:わたしの知る限りでは、拙著に論じましたような数合わせに注目した論稿は、残念ながらこれまでには無いと思います。全く新しい視点だと思っています。
数合わせに気づいたきっかけは、たとえば、大年神の系譜が示す同母兄弟姉妹の数の掲げ方の奇妙さにありました。大年神には3人の妻があり、それぞれの子の数が〈五神〉、〈二柱〉、「九神」という順に、小計として記されています。しかし、このうち〈五神〉と〈二柱〉は分注(小文字二行で書かれた細注)であるのに対して、「九神」は地の文(分注以外の大文字の本文)で書かれています。また、〈五神〉と「九神」は「神」で数えられているのに、〈二柱〉は「柱」で数えられています。
これを追求していくと、この記述は、壬申乱の直前に短期間だけ存在した、二人太子制のもとでの近江令冠位制度である諸王五位・諸臣九位冠位制を寓意するものであることが分かります。
二人太子とは大海人東宮と大友皇太子の二人の太子です。大友皇子が皇太子となったことは、『懐風藻』の大友皇子伝に証言があり、従来説はこの『懐風藻』の説を疑っていましたが、『日本書紀』の編年批判論によって、『懐風藻』の説は正しいことが証明できます。
また、近江令冠位制である諸王五位・諸臣九位冠位制のうち、諸王五位制のほうは壬申乱後も天武朝に継承されている一方で、諸臣九位冠位制の方は廃止されています。このことが、大年神の系譜において、〈五神〉は分注であるのに「九神」は地の文であることの理由です。
――「地の文」として書かれるか「分注」で書かれるかにはどんな違いがあるのでしょうか?
牧尾:古事記の寓意の構造において分注は現在時制、つまり天武朝時制、地の文は古(いにしへ)の時制、つまり寓意の上で、壬申乱前代の時制です。だから天武朝に継承された諸王五位制度を寓意する〈五神〉は分注であり、廃止された諸臣九位冠位制を寓意する「九神」は地の文とされているのです。
分注にするか地の文にするかについて、古事記は時に極めて神経質です。壬申乱以後か壬申乱前かの区別を明瞭にしたいときに、この区別をしています。
〈五神〉が分注で「九神」が地の文であるのは、全ての古写本で一致していますから、この形が原型であったと考えなければなりません。ところが『古事記伝』などはこれを無視して「九神」も分注にしてしまっています。本居宣長は、古事記の寓意の構造に気づいておらず、宣長のあとの多くの古事記研究者も、このような意味での分注の重要性に気づいていません。
――他にも象徴的な数合わせがありましたら教えていただきたいです。
牧尾:大年神の〈五神〉と「九神」は(5・9)という数(かず)セットの代表ですが、景行天皇の系譜にも、隠れた形で(5・9)セットがあります。
景行天皇の系譜は、諸天皇系譜の中でも、書紀系譜と比べて相違の大きな系譜の筆頭に挙げられます。なぜ景行天皇系譜はこれほど書紀のそれと違っているのかに疑問が生じます。その系譜によれば、景行天皇には7人の妻がありますが、ここで注目したいのは、古事記はこれら7人の妻の子の数の小計を最初の妻の5皇子につき〈五柱〉と記すのみで、ほかの妻の子の数には無頓着な点です。
他の天皇系譜ではほとんどの場合、各妻の子女の小計が一々掲げられるのを常とするのと比べると、極めて特異です。何故なのか。
そこで、最初の計数が5皇子であることに鑑みて、2番目以降の妻の皇子のみを数えると、順に3人、1人、2人、1人、2人、1人の順になります。全部で10皇子です。ところが、最後の妻は景行天皇の玄孫にあたる女性ですので、およそ信じがたい妻であり、その所生になる1人の皇子には疑問符が付くことになるためこれを除くと、結局、2番目以降の妻の皇子の数は、10引く1=(3+1+2+1+2)=9人であり、最初の5皇子と合わせて、ここに(5・9)という数(かず)セットが現れます。
ここでは〈五柱〉が分注で現在時制である一方、他の9皇子については、分注から、つまり現在時制から排除されている形です。つまり、ここでも〈五柱〉には天武朝に継承された諸王五位制が寓意され、他の9皇子には天武朝において廃止された諸臣九位冠位制度が寓意されていることがわかります。
また、その3+1+2+1+2=9ですが、逆から見れば9=2+1+2+1+3であり、ここに認められる9の2・1・2・1・3分割は、他にも2例探し出すことができます。 一つは「天神(あまつかみ)」と「国神(くにつかみ)」の配置です。「天神」の全32例に1から32、「国神」の全9例に①から⑨の番号を付けて登場順に並べると、 1~5①②6~11③12~16④⑤17・18⑥19~24⑦⑧⑨25~32となっています。つまり9例の「国神」を32例の「天神」が5グループに割り分けており、分けられた「国神」は2・1・2・1・3というグループに分かたれていますので、ここにも9の2・1・2・1・3分割が認められます。こうなるように物語を仕組んだのです。とんでもない技巧ですね。古事記作者の執拗なこだわりの強さが窺えます。
いま1例は作池記事です。作池記事は5天皇朝に分散しており、崇神朝2池、垂仁朝3池、景行朝1池、応神朝2池、仁徳朝2池の計10池の作池です。ところが最初と最後の依網池が重複しています。そこで最後の依網池を除き(ですからここにも「10引く1は9」という数合わせがあります)、垂仁天皇朝の3池分を最後に回すと、順に2池、1池、2池、1池、3池の順に作られていることになります。するとここにも9の2・1・2・1・3分割が現れます(垂仁朝を最後にまわすのは、各天皇に与えられた寓意が関連します。崇神・景行天皇には中大兄皇子=天智天皇、応神・仁徳天皇には大海人皇子=天武天皇、垂仁天皇には大友皇子が寓意されています)。
拙著第4節の小節8に述べました通り、この9の2・1・2・1・3分割は、実は近江令諸臣9位冠位制に内在する冠位官職の階層分化に対応するものです。これによって、後の大宝令官位官僚制度の祖形が、既に近江令において完成されていたことが分かります。これも新しい発見の一つです。
――牧尾さんは『古事記』が書かれた目的について、「壬申乱の正当化」「天武朝の正当化」という結論を出しています。この結論に至った経緯について教えていただければと思います。
牧尾:「天武朝の正当化」というのはすなわち「壬申乱の正当化」です。「天武朝の正当化」については、まずは、古事記の冒頭に掲げられた別天神五柱と神世七代の構造が天武朝の冠位制度(諸王五位・諸臣七色冠位制)の構造をまねて構成されていることが指摘できます。
そして、この後にイザナギ・イザナミ2神による国生み神話が続きます。この国生み神話が、推古朝の冠位十二階制度に始まり、大化3年紀制を経て大化5年紀制に至り、更に天智3年紀に置かれたいわゆる甲子の制による下位6色への中階、計6階を加える改定までの初期冠位制度史を鋳型として組み立てられた神話であることが分かります。
この甲子の制の冠位制度は大海人皇子によって宣命された制度であり、天武朝の冠位制度である諸王五位・諸臣七色冠位制のうちの、諸臣七色冠位制にほぼそのまま継承された制度です。
結局、古事記の冒頭神話を見ると、天武朝の冠位制度の寓意を別天神五柱と神世七代として初めに置き、その冠位制度に至るまでの経緯をなぞる形に国生み神話が語られていることになります。これは古事記が天武朝を正当化し顕彰しようとして構成した寓意の構造に他なりません。
なお、第4節の小節6では、「命」の異体字である「今=令」が、真福寺本によれば上巻に5例、下巻に7例あるのは、天武朝の冠位制度である諸王五位・諸臣七色冠位制を寓意する数合わせであり、これは「今」が天武朝であること、つまりは古事記の勘案・作成された時代「今」が確かに天武朝であることを寓意するものであることを指摘しています。
これだけですでに古事記がいかなる書物であるかは歴然としています。天武朝の顕彰とは壬申乱の肯定ですが、これは翻って「壬申乱前代への呪詛」になります。
古事記はイザナ岐(ギ)の命(みこと)によって大海人皇子を寓意し、イザナ美(ミ)の命によって中大兄皇子を寓意しています。そしてそのイザナミの命は、火の神を生んだため、はやばやと黄泉國(よみのくに)に棲む者となります。国生み・神生みの一方の主役が、あろうことかはやばやと黄泉国=死者の国へと追いやられる形になっています。しかもその姿は腐って蛆がわいているという、生々しくも醜い姿に描かれます。
また、生まれた火の神はイザナギの命によって斬首されます。この斬首される火の神には、壬申乱で大海人皇子軍によって斬首される大友皇子が寓意されています。
黄泉國のイザナミの体には大友皇子を寓意する火雷が居ますので、黄泉國には結局、中大兄皇子と大友皇子がともに封じられる構造になっています(黄泉國と地上とを結ぶ黄泉比良坂〔よもつひらさか〕を「伊賦夜坂」と名付けていますが、「伊賦夜坂」とは伊賀皇子=大友皇子に夜という暗黒の世界・死の世界を賦す寓意を持つ坂です。古事記で音仮名の「伊」は、「火」とともに、一貫して伊賀皇子=大友皇子の斬首の宿命、あるいはまたその宿命を負った大友皇子自体を寓意する呪文字です)。壬申乱前代への呪詛はここに極まり、ここに発しています。
古事記の寓意の構造を読み解く時、古事記による壬申乱前代に対する呪詛、中大兄皇子・大友皇子に対する呪詛は、さまざまな寓意文字・寓意の仕組みを以って、これでもかというほどに繰り返されていることがわかります。拙著序節と第4節の小節9で「10引く1は9」という数合わせにつき、「引く1」が大友皇子を余計な者として除外する寓意を秘める数合わせであることを指摘しましたが、これも壬申乱前代への古事記流呪詛の一環です。
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