大地震に火事、疫病…江戸時代の「災害復興マニュアル」とは
地震、火山噴火、台風、猛暑、豪雨、豪雪など、毎年のように日本各地で自然災害が起きている。特に昨年からつづくコロナ禍とあって、こうした災害への対応もなかなかこれまで通りにはいかないことも多い。
ただ、日本における自然災害は近年に限ったことではなく、江戸時代も各地でさまざまな災害に襲われていた。その時、当時の大名たちはいかにして、百姓・町人ら領民たちの命を守り、町や村を復旧させたのか。
■大地震に疫病…江戸の社会はどう対処してきたのか
『災害とたたかう大名たち』(藤田達生著、KADOKAWA刊)では、江戸時代の地域社会を数年ごとに襲った大小さまざまな災害に際して、大名がいかに領民を守っていったかを紹介する。
安政2年(1855年)に発生した「安政江戸地震」。その前後にも立て続けに日本列島を大地震が襲っており、その総称として「安政大地震」とも呼ばれている。安政年間(1854~1860年)は巨大群発地震の時代と言ってもよいほどに大地震が頻発していたのだ。さらに、安政5年7月に江戸でコレラが大流行して10万人が病死するなど、以後4年間にわたり全国的に猛威を振るった。コレラ騒動が鎮まった文久2年(1862年)からは、はしかが大流行。疫病の流行によって物価が高騰し、民衆の生活は危機に瀕する。
このとき、江戸の復興はどうだったのか。
江戸では元来「江戸の華」に数えられたように火事がたびたび起こっていたため、災害とその対処にはある程度ノウハウがあったようである。
安政大地震が発生した際は、幕府のいわば「御救いマニュアル」とでもいうような方針に沿って、短時間で大規模に御救小屋が建てられた。やがて炊き出しが始まり、被災した町人は各町より長持などをもって決められた場所に向かい、包装された握り飯・梅干し・沢庵を持ち帰るようになっていたという。
幕府からの御救いは、貧しい町人や非人が中心で、町人一般は付近に大名や旗本の屋敷、寺社や大商人の大店があった場合は、そこからの施行も期待できた。施行主体への報奨金精度などで幕府もそれを奨励していた。
地震の被害は甚大だったが、江戸では対応も早期にシステム化していたため、日常への早期回復が図られていたのだ。
著者である三重大学副学長、教育学部・大学院地域イノベーション学研究科教授の藤田達生氏が専攻する歴史額は、過去の災害に関する基礎的データを提供している。そこで集積された災害関係資料群は、防災・減災のためだけでなく、その時代を知るための有効な素材となるという。
ここでとり上げた災害復旧がシステム化されていた江戸に対し、地方の諸藩はどのように対応していたのか。実は地方には地方の対処法が根付いていたようである。地震や病疫など、相次ぐ非常事態をどのように乗り越えてきたのか。天災が多い国である日本に暮らしていた「先輩」たちがどう災害に対処していたのか。令和の世から振り返ってみるのも味わい深い。
(T・N/新刊JP編集部)