【「本が好き!」レビュー】『悪魔的な神: 旧約聖書要約』高田勝成著
提供: 本が好き!高田勝成『旧約聖書要約 悪魔的な神』(デザインエッグ社、2021年)は旧約聖書の要約と注解である。注目は「宗教的でない人が思う悪魔的なイメージとは、実は聖書の神そのもの」との主張である(13頁)。聖書の記述を挙げて神が独善的であり、人々に自分の価値観を押し付けるために害悪を押し付ける存在であると説明する。
この主張は旧約聖書の要約に入る前の序論「聖書の神の悪魔的なイメージについて」で論じている。神は理不尽であり、傲慢である。アブラハムは愛する息子を生贄にせよと命じられ、ヨブは信仰心を試すという神の気紛れで災難に見舞われる。
特にヨブの話は酷い。ヨブの子ども達は神によって殺されるが、神がヨブの信仰心を確認した後も生き返せることはしない。神は害悪だけを与えて、自分の責任に対して原状回復しようともしない無責任な存在である。人間の立場から見れば神は悪魔としか言いようがない。
エレミア書には陶工が手の中に粘土でどのような器を作ろうと壊そうと自由であるように神が自身の民をどうしようと自由との記述がある。
神は日本のエンタメ作品の悪役と重なる。『鬼滅の刃』の鬼舞辻無惨パワハラ会議で「全ての決定権は私に有り私の言うことは絶対である。お前に拒否する権利はない。私が正しいと言った事が正しいのだ」と言い放った。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の織田信長は供応役の明智光秀に対するパワハラを徳川家康の反応を見るための演技と開き直った。現代のエンタメ作品が神のような存在を描くならば、まさに悪魔的な存在になるだろう。
神に悪魔のイメージがあることは人類史的に正しい。古代の人々にとって嵐や地震など自然災害は、欲望のままに暴れ、理不尽に人を害する悪の存在に見えた。悪霊が暴れていると考え、自分達に害をなさないように儀式を発達させ、宗教になった。悪霊が神になったのであり、神に悪魔のイメージを感じることは当然である。
人々が理不尽な目に遭っても神の怒りと捉えて、ただただ耐え忍ぶならば支配層によって都合が良い。このようにして宗教は支配階級の道具となった。この点で宗教を「民衆の阿片」と述べたカール・マルクスは正しい(『ヘーゲル法哲学批判』)。神に悪魔のイメージを感じる人々は理不尽なものを理不尽と言える人々であり、健全である。
逆に悪魔的なイメージのものを神として信仰の対象にすることに弊害がある。「聖書の神の教えを忠実に守ろうとするなら、ユダヤ教徒による古代パレスティナの先住民虐殺や、キリスト教徒によるヨーロッパ中世の魔女裁判や中南米の原住民の虐殺、イスラム教徒による仏像や神像の破壊等は、皆褒めたたえないといけなくなる」(13頁)。これらを現代の宗教者は正しい信仰からの逸脱としたがるが、むしろ悪魔的な神の教えの正しい帰結である。
本書は旧約聖書の記述から神が悪魔的と論証するが、これは新約聖書の神も同じである。旧約聖書と新約聖書の連続性はキリスト教徒にとっては当たり前のことである。共通しているからこそ共に聖書と呼ばれる。しかし、ユダヤ教徒にとっては当たり前ではない。ユダヤ教徒にとってはキリスト教徒が旧約聖書と呼ぶものが唯一の聖書である。また、日本人が宗教評論的に論じる場合は双方の違いに着目する傾向がある。怒りの神と愛の神というように。
序論「聖書の神の悪魔的なイメージについて」では旧約聖書と新約聖書の個々の文章を並べ、類似性を明らかにする。類似性を当たり前と思っている人は類似点の再確認になる。そうでない人も類似点があること自体は理解できる。そして類似点があることを認めること自体はユダヤ教徒的な聖書理解とも矛盾しない。偽預言者の紛い物という認識ならば、似ていること自体は持論の補強になるためである。
本書の旧約聖書の要約部分ではツッコミ的な注解が入る。出エジプト記では神がエジプト中の初子を殺したが、入口に子羊の血のついていた家だけは過ぎ越した。これに対して「エジプト人の中には良い人もいたでしょうに…… あと、全能の神にしては、目印が必要なのが解せません」と指摘する(92頁)。
イスラエルとアマレクの戦いでは神の杖を持つモーセが腕を上げるとイスラエルが優勢になり、手を下げるとアマレクが優勢になった。これに対して「全能の神の奇跡にしては、腕を上げ続けていなければ効果がなくなるというのは、ドラえもんの秘密道具みたいな杖ですね」と指摘する(101頁)。客観的にみると御都合主義的な個所が多い。それを指摘できる視点は貴重である。
レビ記は皮膚病を穢れている、治癒を清いと表現する(135頁)。聖書が皮膚病への偏見の一因になる事実に向き合うべきだろう。皮膚病が改善した場合の清めの儀式も規定されているが、これは皮膚病を改善するための儀式ではない。自然治癒した者に清めの儀式を行い、神への捧げ物を祭司に渡す。神は皮膚病を治さないが、自然治癒すれば神のお陰になり、捧げ物を渡さなければならない(138頁)。消費者にとって価値と対価が見合わないビジネスである。キリスト教社会のマルクスが宗教を阿片と述べたことに納得できる。
(レビュー:林田力)
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