新刊ラジオ第1495回 「車いすバスケで夢を駆けろ―元Jリーガー京谷和幸の挑戦」
元Jリーガー京谷和幸選手。1993年Jリーグ開幕から半年後に交通事故に遭い、脊髄を損傷し車いす生活になり、大好きだったサッカーを失った彼は、翌年の1994年に車いすバスケットボールの選手として再スタートしました。名門千葉ホークスに所属し、パラリンピック日本代表にも選ばれた彼の軌跡は、多くの人にその力強さと夢に挑戦し続ける事の偉大さを伝えるでしょう。
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車いすバスケ選手の夢
車いすバスケをご存知ですか?知っていても、実際に見たことのある人は少ないかもしれません。 車いすバスケを扱った作品としては、井上雄彦さんの『リアル』という漫画や2004年に公開された松山ケンイチさん主演の『ウイニング・パス』という映画があります。また、2008年に公開された要潤主演の『パラレル 愛はすべてを乗り越える』という映画がありましたが、これは実話を元にした映画でした。今回紹介する本は、この実話の本人である、京谷和幸選手の本です。
著者プロフィール 1971年北海道生まれ。小学校2年生からサッカーを始め、高校2年生からユース日本代表入り、バルセロナ五輪代表候補となる。室蘭大谷(むろらんおおたに)高校卒業後、古川電気工業株式会社に入社。 1991年にジェフ市原とプロ契約。1993年、Jリーグ開幕から半年後、交通事故により脊髄を損傷し車いす生活になる。1994年、千葉ホークスに入り、車いすバスケ選手としてスタート。2000年シドニーパラリンピックより日本代表に、2008年北京パラリンピックでは日本選手団主将をつとめた。 自身の経験や視点を生かし、全国の企業や学校で講演。また車いすバスケットボール教室を精力的に行っている。現在、株式会社インテリジェンス提供の障害者専門人材サービス事業にて、障害者リクルーティングアドバイザーとして活動。千葉県浦安市在住。千葉県教育委員会教育委員。
本書は、京谷和幸さんが自身の半生を振り返り、講演でも語られているという「夢・出会い・感謝」の大事さを伝えている一冊です。京谷さんの語りで、小学校〜高校〜プロ入りまでのサッカー人生。そして、事故の後のリハビリと車いすバスケとの出会い。車いすバスケの選手としての活動から、最近の講演会の内容など。まさに京谷さんがこれまで歩んできた軌跡を振り返っています。
人生を一変させた出来事
一読して思ったのは、京谷さんは、まぎれもない「スポーツ選手」だな!という事です。スポーツ選手、特にプロになるような選手は、厳しい競争社会の中で生きています。1秒の差、1点の差が明確に勝敗を分ける世界です。生半可な努力やモチベーションでは、決してプロになることはできません。
事故に遭う前、プロサッカー選手にまでなった京谷和幸選手のメンタルタフネスは、京谷さん自身の語りの中からも満ち溢れていました。サッカーの名門、室蘭大谷高校に入り、1年生の時から背番号10番を背負うべく、必死で練習した際の語りの中に、それは現れています。一節引用しましょう。
小学校から中学校に上がるときもそうでしたが、何か目標を見つけたとき、そこにいる自分をイメージし、そのイメージに近づくために、今、何をしなければいけないのかを自分なりに考えて行動してきました。 室蘭大谷高校に入り、一年生からレギュラーで10番をつけるとイメージしたときもそうでした。 僕は努力という言葉が好きではありません。 自分の好きなこと、なりたいものに対して行動を起こすことは当然で、そのために必要なものなら、当たり前だと思うのです。 (P19〜20より抜粋)
京谷さんは全国有数の高校サッカー選手となり、名門である古川電工に入ります。そして、発足したばかりのJリーグ、ジェフ市原の選手となりました。Jリーグ開幕前の練習中に受けた怪我が原因で、開幕トップチームとはいかなかったものの、開幕から2ヶ月過ぎ頃にトップチームに昇格しました。
なかなか出場機会に恵まれず、イライラと不満を募らせていたそんな矢先。1993年、11月28日に、京谷さんの人生を一変させる事故に遭ってしまいます。
交通事故に遭い、脊髄を損傷し、みぞおちから下の感覚を失ってしまったのです。
第2の人生を歩み始める
事故から20年近くたった今、当時を振り返って京谷さんが書いているこの本ですが、文章の端々から、当時の葛藤や、現実を受け入れられない京谷さんの様子がうかがい知れます。
しかし、京谷さんは、ここから、多くの人の助けを得て、第2の人生を歩み始めるのです。なかでも、事故後の京谷さんの大きな支えになったのが、現在の奥さんであり、当時婚約者だった陽子さんの存在です。
事故があったのは、1993年の11月28日ですが、実は、京谷さんと陽子さんは、翌年の1994年1月29日に結婚式を挙げる予定でした。陽子さんは、事故にあって、まだ自分の両脚がうごかなくなると知らない京谷さんに「入籍しよう」と言います。そして、1993年12月9日に、ベッド上で婚姻届けにサインし、二人は夫婦となりました。
その後、自分の足が動かないことを知った京谷さんは、妻である陽子さんの並大抵でない覚悟と決意を知る事になるのです。 そして、京谷さんはこう思ったといいます。
「サッカーができなくなるということを、くよくよ考えていることが今やるべきことか?いや、違う。一日も早くリハビリして、退院して、陽子と幸せな結婚生活を送ることが、今やるべきことなんだ」(P72より抜粋)
サッカー選手だった頃の強いメンタルと、事故からの復帰を経験して、人への感謝や多くの人に支えられて生きてきた、そして生きていることを実感した京谷さん。その京谷さんが、どのように、何を通じて社会に貢献していこうと考えてきたのか。車いすバスケの選手としてでなく、人間、京谷和幸の経験と思いがよく伝わる一冊です。
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