新刊ラジオ第1431回 「ホイト親子、夢と勇気の実話 やればできるさ Yes, You Can.」
YouTubeで600万回以上再生され、世界中が驚いた「チーム・ホイト」の実話。元スポーツマンの父・ディックと、脳性四肢麻痺の息子・リックが、ボストンマラソンをはじめとする数々のレースに出場して好記録を出し続けることができた背景には、一体、どのようなエピソードがあったのでしょうか。愛と、夢と、勇気があふれる親子の固い絆のストーリーです。
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四肢麻痺の息子を支える親子愛のストーリー
あなたは、「チームホイト」を知っていますか? 脳性麻痺の息子・リックの車いすを押し、ボストンマラソンをはじめとする数々のレースに出場して好記録を出し続ける親子ですが、インターネット上の動画投稿サイトで紹介されたことで、一躍有名になりました。
今回ご紹介する『ホイト親子の夢と勇気の実話 やればできるさ Yes,You Can.』は、息子のために鉄人になった父親、ディック・ホイトと、脳性麻痺にも負けず、どんなことにでも挑戦し続ける息子、リック・ホイト。リックを支える、親子愛と、家族愛に溢れた一冊です。
● 著者プロフィール ディック・ホイトは、1940年、マサチューセッツ州ウィンチェスターで、10人兄弟の6番目の男の子として生を受けます。運動競技で成功することを願う父とともに、青春期はスポーツをしながらすくすくと育ち、学生時代は、フットボールチームと野球チームのキャプテンを務めてきました。 そして、恋愛も順調で、チアリーディングチームのキャプテンだった、ジュディ・リートンと付き合うようになり、将来、2人は結婚することとなります。
ディックが生業に選んだのは、軍隊の仕事。訓練のために入隊したのは、ニュージャージー州はフォートディックスの陸軍基地でした。体も大きく屈強だったディックは、きつい訓練にも耐え、トントン拍子に昇進していきました。 じきに上官にも素質を認められ、将校任命辞令を受けたことから、ディックは、マサチューセッツ州ケープコッドにあるオーティス空軍基地に派遣され、空軍州兵となりました。
一方、フィアンセのジュディは、秘書の養成学校を卒業して、ジェネラル・エレクトリック社に就職。2人が結婚を意識し始めたのもこの頃です。 そして、1961年の2月18日、ディックとジュディは結婚し、家族となったのです。
息子の誕生と思わぬ不幸な事故
まさにとんとん拍子で、すべてがうまくいっていました。
そして、結婚から一年後、ジュディの妊娠が分かります。 子どもを熱望していた2人にとっては、まさに今が幸せの絶頂です。ジュディはノースリーディングに家を買い、手作りで家を改装して、新居を作り上げました。
しかし、思わぬ形で不幸はやってきます……。 ディックとジュディの初めての息子、リックは、出産中にへその緒が首に巻き付いて、脳に酸素が行き渡らなくなってしまった数分の間に、神経系に取り返しのつかないダメージを与えてしまったのです。
リックは生まれながらにして、脳性麻痺(四肢麻痺の状態)。しかも、それは、体の動きに一生問題が残るという厳しいものでした。
ディック夫婦は、リックの症状を理解し、手術をするのか、施設に預けるのか、家で育てるのかの決断を迫られました。 しかし、当時の医療技術はまだ未熟で、術式は、「脳に故意に傷をつけて、すでに傷ついた箇所との均衡を図る」といった試験的なもので、生存率は50%程度というものだったのです。 結局2人は、家で育てることを決意し、育てていきます。
脳性麻痺の子どもの多くは、発達の遅れや学習障害が多く見られると言います。 しかし、ディック夫婦のその心配は長くは続かなかったといいます。リックの目をじっと見て話しかけると、まっすぐ見返してくる我が子を見て、「大丈夫だ!」と感じたのだそうです。
そう信じるディック夫妻は、ある日、運命的な出会いをします。 リックが8歳のころの、マサチューセッツ州メドフォードにある、タフツ大の工学部長を務める、ウィリアム・クロシェティエ教授と、コンピュータ工学を専攻する4,5人の大学院生と出会いました。彼らは、障害者や、高齢者に向けての先進的なコミュニケーションの方法の開発を行っていたチームです。
息子のリックは、言葉で自分の意思を伝えることができませんでしたが、彼らのチームによって、それが可能になったのです。車椅子の脇にコンピュータシステムに直結した金属製のバーを取り付けて、それを頭で押すことでスイッチを操作し、文章をつづれる、といった仕組みでした。
もちろん、一筋縄ではいきませんでした。 試行錯誤を繰り返し、費用についても膨大なものになりましたので、本業の他に仕事を増やしたり、さまざまな活動を通して基金を募ったり…。
そうしてディック夫妻は、我が子、リックとのコミュニケーションの手段を手に入れたのです。 時間はかかるとはいえ、親子で会話のコミュニケーションを取れるようになったのです。
リックがレースに出るようになったきっかけ
ある晩のこと。 リックが通う学校の教師で、ウェストフィールド州立大学のバスケットボール・チームでもコーチを務めるサルトリから、「リックをバスケットボールの試合に連れて行ってもいいかな?」という誘いが、ディックのもとに来たそうです。 ディックはもちろんOKして、サルトリコーチに連れていってもらいました。
ディックとジュディは同行せず、「リックは楽しくやってるかなー」なんて思いながら、家出仕事をしていたそうです。 そして、試合を終えて、リックが帰ってきました。
サルトリコーチの車の後部座席に座っていたリックは、満面の笑顔だったそうです。 そして、家に入ると、リックはすぐに、会話をするためのコンピュータの前に座りたがり、キーボードを打ち始めました。そこには、ドゥーギーという生徒のためのチャリティレースのことが書かれていたそうです。
友人からはドゥーギーと呼ばれる、ジミー・バナコスは、ウェストフィールド州立大学のアスリートです。活発な19歳で、陸上チームとラクロスチームの重要なメンバーだったそうです。ところが、1977年のある春の日に、試合中の事故で首の骨を負って、首から下が麻痺してしまったそうです。アスリートが一瞬にして四肢麻痺になってしまったのです。
チーム・ホイトの誕生
次の日曜日、ジミーの医療費をまかなう目的で、大学主催の8キロのチャリティレースが行われることを、リックはバスケットボールの試合を見に行った先で知りました。 そして、自分もチャリティに協力したい。チャリティレースに、父親であるディックと出場したいという言葉を、タイプしていたのです。
ディックは一瞬驚き、戸惑ったと綴っていますが、「やろう。マラソンに出場して、その青年を助けよう」と、すぐに息子と固い約束を交わしました。
ディックは当時すでに37歳になっていました。 若い頃はフットボールと野球のキャプテンを務めたとはいえ、不安もありました。 体力は持つだろうか。リックの車椅子はどうしよう。
そんな様々な不安はありましたが、しかし、重要なことを成し遂げたいと決意している息子からこのチャンスを奪うわけにはいかないと、ディックも決意したのです。
本書の続きでは、いよいよチーム・ホイトのレースに向けての準備、親子の訓練…。 2人はトラブルに見舞われながらも、親子の固い絆を深めていきます。
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