犬や馬をパートナーとする「動物性愛者」。その「禁忌」の先にあるものとは?
第17回開高健ノンフィクション賞を受賞した『聖なるズー』(集英社刊)。
そのテーマは「動物との性愛」だ。
動物とセックスをする人たち――この言葉を聞いて、興味を抱く人もいれば、「嫌悪感」を抱く人もいるかもしれない。ただ、本を開く前に、これまで生きてきた中で頭の奥にこびりついてしまった規範、そして価値観をできるかぎり取り払うことをおすすめする。
動物とパートナーシップを築くたくさんの登場人物=ズーたち。その人物たちに振り回され(?)ながら、そして迷いながら文化人類学におけるセクシュアリティ研究を進める濱野ちひろさん。本の至るところに議論の切り口が散らばり、私たち読者はズーたちが発する言葉一つ一つと向き合いながら、ページをめくっていくことになる。
単身ドイツに渡り、動物性愛者による団体「ZETA(ゼータ)」にアクセスし、動物とセックスをする人たちとともに生活をした濱野さん。その時間の中で見つけたものとは。新刊JP編集部はお話をうかがった。
(聞き手・構成:金井元貴)
■動物性愛者たちの組織・ゼータとは
――読み終えて、とてつもない衝撃を受けたと同時に、様々な読み方ができる一冊だと感じました。まず、濱野さんがアクセスしたゼータという動物性愛者の団体について教えてください。
濱野:ゼータはドイツで2009年に設立されました。今のところ、世界で一つだけの動物性愛者による団体で、メンバーは30人ほどです。主な活動内容は動物性愛への理解促進や動物虐待防止への取り組みなどで、ウェブサイトを通して情報を発信し、メディアへの取材協力なども行っています。
――ゼータはオンライン・コミュニティの側面が強いと書かれていました。
濱野:そうですね。SNSやチャットツールなどを使って連絡を取り合っていますし、週1回の定例ミーティングをオンラインで行っています。全体で顔を合わせるミーティングも一年に一度はするようにしているようです。気の合う者同士で個人的に交流することもあります。彼らの中には、自分が動物性愛者であることをオープンにしている人もいれば、していない人もいます。
――動物性愛者たちは自分たちのことを「ズー」と呼ぶそうですね。ゼータの中心人物であるミヒャエルは、自分は「ズー」であるとオープンにしています。
濱野:はい。ミヒャエルは社会的に自分が「ズー」であることをカミングアウトしていて、彼が求心力の一つとなってこの団体が続いてきたという側面があると思います。メンバーの中には、彼のブログが心の支えになったことでゼータに加入したという人もいます。
――現在のゼータの活動はどんな感じなのですか?
濱野:以前はデモ運動などをしていましたが、現在はそういった活動はしておらず、どちらかというと動物性愛者による自助グループの色合いが近いと思います。
――ゼータのメンバーは出入りもあるのですか?
濱野:あります。抜けたり入ったり。パートナーの動物が死んでしまって、パートナーのことを話すことがつらいからやめたという人もいますけれど、人間関係のいざこざでやめることもありますね。ゼータという組織を運営するために、各々が知恵を絞るんです。真剣に取り組んでいるからこそ、時には意見の衝突が生まれる。そのなかで、どうやらケンカに発展してしまうこともあるようです。
――意見の衝突や出入りの多さは小規模の団体ならではというか。また、メンバーのほとんどは男性とありますが、それは何故なんですか?
濱野:その点については私自身、まだ明確な答えを出せていません。推察すると、女性は男性よりもさらに「ズー」であることをカミングアウトしにくい状況があるからではないかと思います。身の危険に晒されたときに、女性の場合はひときわ被害が大きくなりがちですから。
――オンライン・コミュニティという側面が強いとなると、Face to Faceの関係を持たずに匿名で参加している「ズー」もいるのでは?
濱野:いますね。先ほど話した、パートナーの動物が死んでしまって抜けたズーは、ドイツではない国からゼータのチャットに参加していました。1年に1回は全体集会を開催するようにはしているけれど、開催されない年もあるみたいなので、「その人の名前は聞いたことがあるけれど、会ったことはない」という言葉がメンバーから聞かれることもあります。
■犬をパートナーにするミヒャエル、ネズミの群れと一緒に暮らすザシャ
濱野さんが動物性愛を研究のテーマに据えたのは、自身の性的暴力の経験が原点となっている。その経緯は本書のプロローグで「私には愛がわからない」「私にはセックスがわからない」と述べたうえで、赤裸々につづっている。
「愛もセックスも軽蔑」していたという濱野さんは、愛とセックスの絡み合いを学術的に捉え直そうと試みる。つまり、セクシュアリティ研究に踏み入れたのである。ただ、自分自身の問題とは距離を置きたい――そう考えていたときに、当時の指導教員から提案されたのが「ジュウカン」(獣姦)、つまり「人間と動物のセックス」だった。
でも、そのリサーチで濱野さんが見つけた「人間と動物のセックスの形」は、従来の「獣姦」という言葉のイメージとは異なるものと捉えるべきだろう。では、それをどう呼ぶか。「zoophilia」=「動物性愛」だ。この「動物性愛」とは一体何なのか?
◇
――『聖なるズー』の第2章で、濱野さんは動物の「パーソナリティ」という概念をミヒャエルたちを通して考えていきます。ミヒャエルは動物にしか性的欲望を抱かず、キャシーというメス犬のパートナーがいますが、彼女の個性や性格をよく把握していて、「動物にもパーソナリティがある」と言うわけですね。この「パーソナリティ」は非常に重要な発見だと思いますが、それが一体何なのか、現時点での濱野さんの解釈を教えてください。
濱野:この言葉は日本語に置き換えることができなくて、いまだにこの本に書いた以上の解釈ができていません。
今のところの理解で定義すると、人間や動物のパーソナリティとは、人間と動物の間で相互に起きる、それぞれの存在の「状態」のこと。お互いが共有している豊かな時間の中で相互に応答し合い、そのレスポンスの中で見出されるものと考えています。もちろんそこには時間的な経過も含まれていて、相手の機嫌が良かったり、悪かったりすることも含めて常に揺らぎが生じています。お互いがお互いを見つめ続けていく、絶え間ない実践のなかで見いだされていくのがパーソナリティです。
――パーソナリティを見出して関係を構築する相手は、どんな犬でもよいというわけではなく、ミヒャエルならばキャシーのみですよね。その関係性は独特だと感じました。
濱野:そうですね。ミヒャエルがキャシーに見出しているパーソナリティを、私がひと言で言い表すことはできません。彼らは、相手がいて自分がいる、自分がいて相手がいる。その中で変わりゆくお互いを、日々、日常のなかで見出し続けていきます。
――ミヒャエルの次に本書に登場するザシャは、ネズミの群れと一緒に暮らす男性ですが、ネズミ一匹一匹に名前をつけて、個性や性格をちゃんと把握している。私はこの人がすごく好きなんです。よくネズミそれぞれの見分けがつくなと。
濱野:本当にそうですよね! 私もザシャのことは大好きです。おしゃべりが好きで話し始めたら全然止まらないんですよ。ネズミのことを話しているときは本当に生き生きとしています(笑)。でも今、彼はネズミの群れを失ってしまって。先日またドイツに行って会ってきたのですが、ネズミとの思い出を語っているときが一番元気でしたね。
■「ズーの問題の本質は、動物や世界との関係性についての話だ」
『聖なるズー』の第2章に出てくるザシャの言葉によって、「ジュウカン」のイメージで「ズー」を紐解いていた人は面を食らうだろう。
「ズーと自覚している人のなかには動物とのセックスは未体験の人がとても多いんだよ」
「動物は僕にとってパーソンだ」
「ズーの問題の本質は、動物や世界との関係性についての話だ」
実はミヒャエルも、キャシーとはセックスをしたことがない(最初のパートナーとはあるそうだが)。その理由は「彼女が求めないからだよ」。キャシーは大事なパートナーであり、彼女が求めないことはしない。セックスは「自然に」始まればすると言うのだ。濱野さんはこの「自然に」という言葉の意味についてミヒャエルに問い質す。
「あなたがセックスをしたくなったとき、そう都合よくオス犬もしたくなるものなの?」
「違う。犬が誘ってくるんだよ。犬が求めてくるんだ」
ゼータに参加する人たちは一貫して動物ファーストである。濱野さんは彼らの言葉をどのように捉えたのか。
◇
――このザシャが興味深いことを言います。「ズーの問題の本質は、動物や世界との関係性についての話だ」と。私はこの本を「動物性愛=動物とのセックス」というテーマを前提に読み始めたんですが、セックスを中心に置くと解釈できないなとここで気づきました。そこで、これは動物とのセックスではなく、パートナーシップという観点から解釈を試みたら、最後まで読み進められたんです。
濱野:そのように読んでいただけてとても嬉しいです。私も、ズーとパートナーのセックスという行為そのものを観察しようとは一回も思いませんでした。私は交尾の研究をしているのではありません。人間にとってのセックスという行為が象徴してしまうさまざまな物事を分解して考えたかった。
――彼らはセックスがあろうがなかろうが、動物とのパートナーシップを築き上げている。
濱野:そうなんです。セックスがあろうがなかろうが、関係をつくれているんですよね。ザシャ自身はセックスもしないですし。
ちなみに、「ズー」には多岐にわたる分類があって、自身が男性でパートナーがオスの場合は「ズー・ゲイ」、自身が女性でパートナーがメスの場合は「ズー・レズビアン」と呼びます。もちろん、「ズー・バイセクシュアル」や「ズー・ヘテロ」もいます。さらに、セックスに対して受け身の場合は「パッシブ・パート」、その逆を「アクティブ・パート」と呼びます。
ミヒャエルは「ズー・ゲイ」で「パッシブ・パート」ですが、犬が求めてきたらセックスをすると言っています。つまり、ミヒャエル本人の射精欲で動いていない。元気で健康なオス犬を相手にするのに、すでに自分は年を取りすぎているとミヒャエルは感じているため、メス犬でおとなしい性格のキャシーをパートナーにしていますが、最初のパートナーのオス犬のときも「相手がしたくて僕もしたいときにする」と言っていました。
――彼らにとって、パートナーたる動物と対等であり続けることが重要なのかなと思いました。
濱野:そうですね。相手と対等であり続けるためには努力が必要で、毎日細かくお互いを見続ける、大変で緻密な作業をする必要があります。でも、これって人間同士であってもやる価値があると思うんですね。
――そうだと思います。それがパートナーシップですが、そこにセックスが必ず必要かというと、ミヒャエルやザシャは「セックスはしなくてもいい」と言っている。「動物とセックスする人たち」の研究から、動物とのパートナーシップの研究に枠が広がるような感じがします。
濱野:セックスは相手を必要とするから、どうしても他者との関係ができてしまう行為なんです。つまり、他者に干渉せざるを得ない。その干渉にはいろんな方法や側面がある。また、一方で、人間社会では、性器と性器の結合それ自体に多くの意味が付与されすぎているという面もあると思います。そういったことを詳しく見ていくと紐解けることが多いし、考えるべきことは膨大にあると思います。ここにセクシュアリティ研究の面白さというのがあるように感じます。
■動物が「誘ってくる」――それは人間側の思い込みでは?
ミヒャエルやザシャとの出会いを経た『聖なるズー』の第3章では、「動物からの誘い」とは何かを追究する。様々なズーたちからその話を聞き、確かにそういうものがあるのかもしれないとも濱野さんは考え始める。しかし、そこで漏らしている、ズーたちの意見に「釈然としない気分を抱えていた」という言葉は、嘘偽りない気持ちだろう。
人間が勝手に犬たちが「誘っている」と思い込んでいるのでは?
それは人間側の都合の良い解釈では?
しかし、ズーたちは口を揃えて、「誘い」があるのだと言う。
そんな中、濱野さんはドイツではなく日本で出会った青年から、犬とセックスをしたと打ち明けられる。「どうしてラッキー(犬の名前)は犬なんだろう」と彼はいい、セックスに至った経緯を詳細に語る。そこにはまさにドイツでゼータの人たちの話と共通するものがあったのだ。
ズー・ゲイとズー・レズビアン。パッシブ・パートとアクティブ・パート。性器にペニスを挿入するズー、しないズー。それは「ズー」同士でも議論になることがあるという。そして、受け身のパッシブ・パートは、その逆のアクティブ・パートに対して「本当に動物を大切に扱うことだといえないと思う」と問い詰めることもある。
濱野さんはそうしたやりとりを見聞きし、パッシブ・パートたちの言葉から「人間と動物の間に従来あると思われている支配と被支配の関係から、セックスのときには脱する」という考えがあることを読み取る。そして、それは「支配者側の立場を降りる喜び」だとつづる。
これは一方で、ペニスの挿入を避けることで、暴力性を回避しているのではないかと考えることもできる。だが、濱野さんはこうも指摘する。「性暴力の本質がペニスそのものにあるわけがない」と。ペニスを悪者にすることで、確かに分かりやすく二項対立を作れる。しかし、「性暴力の本質はもっと別のところにある」と警鐘を鳴らすのだ。
◇
――人文の研究対象は「人間」ですが、今回の研究は性的な行為をも含む関係の片割れが動物であるということが重要です。動物が何を考えているのか、私たちは知る由もない。
濱野:そうなんです。人間と動物の関係についての研究は人文分野でも今、人気のジャンルになってきています。私の研究もその中の一つに属するのですが、私自身はずっと人間を中心に見てきました。おっしゃる通り、犬の気持ちは分かない。私も、できるかぎり犬を観察し理解しようとしたけれど、私には明確な答えが見つからなかったです。だから、私は犬に寄り添う人たちにできる限り接近することで考察を進めようと思いました。
――だから「動物から誘われる」という言葉にも対しても疑心があった。
濱野:そうです。動物行動学や生態学の研究者だったら、私のような見方はしなかったかもしれません。私は、今回はそちらの分野まで踏み込む余裕がなかったです。ですので、本書でも、人間にとってのセクシュアリティの問題に焦点を置いています。
(後編:「無駄な時間が9割」。でも、その時間が開高健ノンフィクション賞受賞作を生んだ)
■濱野ちひろさんプロフィール
ノンフィクションライター。1977年、広島県生まれ。2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。2018年、京都大学大学院修士課程修了。現在、同大学大学院博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。