辻村深月 30代で「死」をテーマにした時に周囲から言われたこと
出版界の最重要人物にフォーカスする「ベストセラーズインタビュー」。
第107回の今回は『ツナグ 想い人の心得』(新潮社刊)を刊行した辻村深月さんが登場してくれました。
辻村さんの『ツナグ』といえばシリーズ累計100万部に達した大ベストセラー。依頼人と依頼人が会いたい死者を再会させる「ツナグ」という役割を担う歩美の葛藤と成長、そして死者と生者を巡るドラマを描き、2012年に映画化もされました。
その続編となる今作ですが、当初辻村さんは続編を書くつもりはなかったとか。その思いが変わった背景にはどんなきっかけがあったのか。そして『ツナグ 想い人の心得』の物語をどう紡いでいったのか、ご本人にお聞きしました。
(聞き手・構成:山田洋介、写真:金井元貴)
■もし「ツナグ」が実際にいたとしたら……
――生きている側が一方的に死者を呼び出すのではなくて、死者の方にもその人に会うか選ぶ権利があって、死者の方も生きている人と会えるのは一度きり、というルールが物語にも影響を与えています。このルールだと、生きている方も思い悩みますよね。「自分は亡くなったあの人に会いたいけど、向こうは私よりも会いたい人が他にいるはず」とか。
辻村:最終章の「想い人の心得」はまさにそんな話です。前作を書いていた時は「ツナグ」はまさに死者という存在そのものをどこかから呼び出してきているという感覚だったのですが、だんだんと「呼び出すものは死んだ人の魂そのものでなくても構わないのかな」と思うようになったんです。
――魂でないとすると、どういったものなのでしょうか。
辻村:魂ではなくて、この世の中に残るその人の記憶をありったけ集めた姿を一夜の形にしているようなものなのかもしれないと考えるようになりました。たとえば「想い人の心得」で、若い頃に片思いしていた少女に会いたいと願う蜂谷という老人は、少女が生きていた頃の関係性そのままに「私が会いたかったのはあなたじゃない」と怒られることさえ望んでいるように思える。この小説で再会する死者は、そんなふうに依頼人の存在を反映する鏡のような存在に思えてくるんです。
会いたかった人に優しい言葉をかけてもらいたい人ばかりじゃなくて、「怒られるかもしれない」とか「あの人だったら何と言うだろう」とか、死者についての記憶を通して自分の行動や決断を考えたくて再会を望む人もいる。
主人公の歩美もまた、自分のおばあちゃんだったらどう言うだろう、と常に死者の存在を傍らに置きながら、迷いつつ成長していきます。実際に生きていたら相談なんてしなかったかもしれないことにも亡くなったおばあちゃんの目線で考える。死者を、現在の自分を写す鏡のように感じるというのは、そういうことだと思います。
――もし「ツナグ」が実際にいたとしたら、辻村さんは誰に会いたいですか?
辻村:前作の編集を担当してくださって、今回の本を書いている途中で亡くなられた新潮社の木村由花さんでしょうか。ただ、木村さんは名編集者だったので、私以外にも会いたいと希望する人がたくさんいらっしゃるはずだから、叶うかどうかは難しいのですが。『ツナグ』のシリーズは由花さんがいなければ生まれなかったものなので、いつか歩美に頼んで今回の本を渡してもらえたら嬉しいです。
――「死者との再会」というテーマの作品は、これまでにも何人かの作家が書いています。辻村さんがこのテーマを扱った理由はどんなところにあったのでしょうか。
辻村:「yom yom」の編集長だった木村さんから執筆依頼をいただいた際に、私の書いた「ぼくのメジャースプーン」という話が大好きだと言ってもらったんです。これまでも私の小説は読んでいたけれど、「これは尋常ではないと思い、一緒にお仕事を」という熱意に溢れたメールをいただき、この人の気持ちに応えるものがお返ししたいと思いました。
「ぼくのメジャースプーン」では、現実にはあり得ない「不思議な力」が登場します。あの話のような、小説だからこそ実現可能な少し不思議な設定を作るとしたらどんなものがいいか。そう考えた時に、人が一番、望むけれど叶わないことは「死者との再会」かもしれないと思ったんです。
「死」や「喪失」を描こうという大きなテーマが先にあったわけではなく、「再会」の設定の方が念頭にあって、「ツナグ」という小説の基本的な部分ができていきました。
――とはいえ書くとなったら「死」も「喪失」も重いキーワードではあります。
辻村:『ツナグ』を書き始めた当時、私は30代に入ったばかりだったのですが、「次は死について書く」と言うと、「あなたの年齢でそのテーマはまだ早いんじゃないか」とか「あなたの歳では喪失の経験は少ないだろうに」と言われたことをよく覚えています。
確かにその頃は、私自身が「ツナグ」に頼んでまで会いたいと思える人の心当たりはまったくありませんでしたが、だからこそ「死」や「喪失」についてフラットな考えで書けるかもしれないと思ったんです。死や喪失について、経験に引き寄せられることなく俯瞰できる今じゃないと書けないことが逆にあるのではないかと、思い切って書き始めました。
――実際に書いてみた感触はいかがでしたか?
辻村:先ほどの話にもありましたが、こちらとしてはそんなに最初から大がかりな気持ちで書いていたわけではなかったので、依頼人と「ツナグ」を巡るシチュエーションとして単純におもしろいものができあがればいいなという感じでした。
ただ、最終章にきて歩美の中に葛藤が生まれてきたんです。「会いたいからといって、死者を生きている人の都合や願望で呼び出してしまうのは、生きている人間のエゴなんじゃないか」と悩みはじめた。そこに突き当たった時に「私はもしかしたらここが書きたくて今まで書いてきたのかもしれない」と感じたんです。この葛藤こそが私があの年齢で死者の物語を描くことの意味だったのかもしれません。
どの小説もそうですが、私は「このテーマについてこう書きたい」という構想が最初から自分の中にあることはほとんどなくて、書くことを通してテーマに気づくこともありますし、本になって書評や感想をいただいたことで、読み手の言葉から、「そう、それが書きたかったんだ!」と視界が開けることもあります。
こういうことを事前に自分で把握していればもっと楽に書けたかもしれない、とも思うのですが、逆に把握していたら書けなかったのだろうとも思います。書きながら迷ったり葛藤しながら自分が本当に書きたかったことに辿り着くということの繰り返しです。これからもそうやって書いていくのだと思います。