苛立ちを生む「こうであるべき」という執着を手放すための考え方
「面倒くさい」といった感情、「こうでなければいけない」という執着、誰かに腹を立てる…。
私たちはこうしたネガティブな感情に囚われてしまいがちだが、小さなことに苛立つ自分に落ち込んでしまうことも多いのではないだろうか。
他者とぶつかる必要もなく、悩みもない。そんな悟りの智慧を紹介するのが『解脱寸前』(小池龍之介著、幻冬舎刊)だ。
著者の小池氏は、すべての煩悩を滅却した悟りの境地である「解脱」を目指し、月読寺住職と執筆業を辞し、外界との連絡を断ち、2500年前のインドの修行僧と同じ野宿生活の旅に立つ。
本書では、10年以上におよぶ修行の日々から得た気づきと深い修行に入る覚悟を記している。
■「こうであるべきだ」はいかに手放せばいいのか?
「〇〇は××であるべきだ」。この執着について小池氏は、歪んだ正義感の源泉であり、争いの元だと述べる。ただ、こうした見解の囚われから自由になるには、「見解に執着してはならない」と考えてはいけない。「見解に囚われるべきではない」という新たな見解への執着を生み出すことになってしまうからだ。
では、どうすべきなのか。仏道的マインドフルネスの実践では、意識の中心を見解の中に置くのではなく、見解の外側から見解を観察するところに置くことが大事と小池氏。
たとえば、他者の言動に対して、「〇〇は××だ」「納得できない、この考え方はおかしい」と思ってしまうもの。つまり、意識の中軸は見解の中に置かれてしまう。 それに対して、マインドフルであるとは、「『なるほどその通りだ』と思っているようだ」とか「『納得できない』と思っているようだ」と、観察する視点へと移行することであると述べる。
否定も肯定もせず、ただ「そうした考えが生じている」と外部から観察するのだ。見解が正しいか間違っているかを判断するのではなく、ただ気付いたままにしておく。
心に浮かんでくる見解たちを見てみると、実はどれも「私が作っている」「私の作品だ」と呼べない性質を持っていることがわかるだろう。 見解を自分の作品だと思い込むことで執着が生じる。ここで「単なる脳の自動反射」と理解するなら、考えが勝手に湧いてくるさまを真に受けずに観察する距離感が分かってくる。 こうすることで執着する意味もなくなるのだ。
小池氏が長きに渡る修行の日々で、どんなことに気づき、悟っているのか。本書から気づくことは多いはずだ。
(新刊JP編集部)