だれかに話したくなる本の話

告発から5年、今だから考えたいスノーデンの警鐘

国家や権力者が国民の行動や思想を監視する社会の形成は、かねてから様々な場所で「悪夢」として語られてきた。

古くはジョージ・オーウェルの『1984年』で描かれた双方向監視社会。しかし、当時はまだインターネットの可能性がまだ広く理解されていなかったこともあり「いずれ起こりうる最悪の事態」として位置づけられていたのみだった。

しかし、この悪夢は2013年、エドワード・スノーデンの暴露によって、すでに現実のものになっていることを我々は知ることになった。

■スノーデンが呼び起こした監視社会の悪夢

スノーデンの暴露とは、端的にいえばNSA(アメリカ国家安全保障局)による、「PRISM」と呼ばれる通信監視プログラムを用いたインターネットの通信記録や通話記録といったメタデータ収集の事実とその手口を白日の下にさらした点だ。

その中には、日本を含む同盟国が多く含まれていたため、世界を巻き込む大問題となり、アメリカは火消しに追われると同時に、国内でその手法の道義を問う声が続出したのは記憶に新しい。

アメリカが収集していたのは、文書や音声記録、動画も含めたインターネットで手に入る情報のすべてである。それが一体なぜ問題なのだろうか? 『暴露:スノーデンが私に託したファイル』(グレン・グリーンウォルド著、田口俊樹、濱野大道、武藤陽生訳、新潮社刊)から引用しよう。

インターネットは、普及しはじめた当初からきわめて大きな潜在能力を秘めていると考えらえてきた。政治を民主化し、強者と弱者のハンディキャップをなくし、数億の人間に自由を与える能力がある、と。(中略)そんなインターネットが監視システムと化せば、その潜在能力は根こそぎ奪われてしまう。そればかりか、インターネットそのものが抑圧の道具となり、国家による監視手段としてどこまでも危険で抑圧的な人類史上最悪の兵器となるおそれすらある。(p.16より引用)

世界はこうしたリスクに敏感だった。スノーデンの暴露したアメリカによるネット通信の悪用は、古くから語り継がれてきた国家主導の監視社会を思い起こさせるに余りある出来事だったのだ。

■前代未聞の暴露はなぜ起こったか

しかし、PRISMの存在は国家の機密事項である。当然、暴露したスノーデンもお咎めなしというわけにはいかないし、暴露するまでに葛藤もあったはずだ。

『暴露:スノーデンが私に託したファイル』には、暴露に至るまでのスノーデンの逡巡と、その方法、影響などがジャーナリストとしてスノーデン本人と接触した著者の手でつづられていく。
元々はスノーデンもNSAの職員。しかし、その任務の過程で、FacebookやGoogleを巻き込んだブラックボックスの中に秘められた監視活動の実態に気づき、幻滅していったという。

スノーデン事件当時の日本の反応は、アメリカと比べてかなり穏健なものだった。しかし、権力の側が国民を監視によって管理することは、どこの国でも起こりうる。

国民監視を正当化する側は、いつも監視行動が国民の利益になることを強調する。つまり「監視されて困る人間は何かやましいことがあるのだ」と。

しかし、これは人間には「いい人間」と「悪い人間」の二種類しかいないという考えに基づいた意見である。私たちのほとんどはある人にとってはいい人間であり、別のある人にとっては悪い人間なのだ。そうである以上、知られては困ること、覗かれたくないことは、当然存在する。

『暴露:スノーデンが私に託したファイル』で描かれているアメリカの国家ぐるみの監視の実像は、決して日本にとっても他人事とはいえない。アメリカでの先行事例は私たちへの警鐘である。その警鐘は、スノーデンの告発から5年が過ぎた今でも鳴り続けている。

(新刊JP編集部)

暴露―スノーデンが私に託したファイル

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