今なお息づく「江戸時代のドラッカー」の思想とは?
今から300年前、「江戸時代のドラッカー」と呼ばれる日本人がいたことを知っているだろうか。
その人の名前は、石田梅岩。
士農工商の身分制度が確立されていた18世紀前半の時代に、「富の主は天下の人々である」「先も立ち、我も立つ」「世界のために3つのところを2つですます」など、現代のビジネスシーンにあてはめても通用する急進的な教えを説いていた。
梅岩の死後、彼が残した心の思想は「石門心学」と呼ばれ、商工業者が指針とすべき倫理の教えとして全国に広がり、今もなお受け継がれている。
京セラの創業者である稲盛和夫氏も。「商人道」の元祖として講話などで取り上げる人物だという。
では、石田梅岩とはどんな人物だったのだろうか。
『魂の商人 石田梅岩が語ったこと』(サンマーク出版刊)は、25年にわたり石田梅岩の研究を続けている著者の山岡正義氏が、日本型経営の元祖として、現代の経営者やビジネスマンが熱い視線を向ける石田梅岩のすべてを書き記した一冊だ。
■経営の本質を江戸時代に説いていた
なぜ、梅岩は「江戸時代のドラッカー」と言われるのだろうか?
その所以は時代を経て国も異なる2人の思想家の類似性にあると、著者は指摘する。
例えば、梅岩は、「富の主は天下なり。(中略)売り先の心に合うように商売に情を入れ勤めねば、世渡に何ぞ案ずることのあるべき」(p.20より引用)と言っている。
これは、今でいう「顧客満足」「顧客志向」の思考というべきもので、「お客さまの心にかなうように懸命に商い努める」ということを奨励した言葉だ。
一方で、経済思想家であるピーター・F・ドラッカーは「事業の主役は顧客である。顧客が事業の土台であり、事業の存在を支える。顧客だけが需要を創出する」(p.20より引用)と言っている。これも「顧客満足」「顧客志向」の考え方だ。
そう考えると、梅岩はドラッカーよりも250年早く、経営の本質を説いていたことになる。
■講義は現代的なゼミ形式。今なお息づく梅岩の思想
梅岩が自らの思想を世間に広める活動を始めたのは、40代半ばになってからのことだ。
非常に精力的だったようで、京都の車屋通りで始めた辻講釈はなんと座席無料。また、男女の区別なく、講話の場を開放し、聴衆を相手に毎日のように自分の考えを説いていた。
そんな梅岩の講釈は始めた頃こそは、「商家の番頭風情が何をしているのか」という批判や中傷を受けたが、次第に心を捉えるようになり、聴衆の数も増えていく。さらに京都にとどまらずに大阪への出張講釈も行われるようになり、熱心な信奉者や後援者、門下生も数多く現れるようになっていった。
さらに、その門下生たちの講義も開かれ、「月次会(つきなみかい)」と呼ばれる勉強会が月に3回、定期的に開催されるようになった。
ここで注目すべきは、その勉強形式にあると著者は言う。
師匠が弟子に教えを一方的に説くスタイルではなく、あるテーマについてみんなで討論し、結論を導く現代的な「ゼミナール形式」だった。
師匠も弟子も対等に議論を交わし、よりよい結論へと導く。そうした民主的な方法がとられていたのだ。
地元・京都では、梅岩の商人道の精神が継承されており、今なお深く信奉され、実践している会社や商家はめずらしくない。
その典型的な例といえるのが、京都で高級麩料理店を営む「半兵衛麩」だ。
同店の創業は1689年で、1685年生まれの梅岩とほぼ同じ時代に開業した老舗中の老舗である。その3代目が、梅岩の石門心学を学び、その思想に深く傾倒。門弟子となったという。
そして、この3代目のときに、現在まで受け継がれている「先義後利(義を先んじて、利は後とする)」という家訓がつくられ、「正直に生きなさい」「節約・貯蓄をしなさい」といった梅岩の平易な教えを怠ることなく実践してきた。それが300年以上にわたって続いてきた最大の要因であるのだ。
江戸時代のドラッカーこと石田梅岩の教えから学ぶことは多いだろう。実際、半兵衛麩のように梅岩の思想が受け継がれ、成功している会社もある。
そして、商人道だけでなく、そこから人として生きる道のヒントも得られるはずだ。
(新刊JP編集部)