誰もがお世話になったあの固形燃料を開発した会社は、創業時から環境に優しかった
■名経営者を育んだのは、ロシアでの学びだった
ロシアは日本にとって遠い国であったが、戦前から知識人に対して文化的影響をあたえていた。そして戦後には、民主的革新運動が盛んになるにつれ、うたごえ運動でロシア民謡が多く歌われるようになり、一般大衆にも少しずつ身近なものとなっていった。
『どん底企業から東証1部へ――二度の倒産から東証一部上場を果たした企業の成長の要諦』(森田千里雄著、ダイヤモンド社刊)の著者で、業務用洗剤や固形燃料を製造する株式会社ニイタカ会長の森田千里雄氏の長兄は、戦後シベリアに抑留されていたのだが、当時のソビエト連邦流の教育に接し、好印象を持っていたという。それもあってか、6人兄弟の末っ子で経済状況が厳しい中、大学に行きたいと考えていた森田氏に、渡航費から授業料、生活費まで提供してくれる、ソ連の民族友好大学への留学を勧めてくれたのだ。
森田氏は、担任教師の反対を押し切り1963年、モスクワに向かった。森田氏自身もソ連に対して悪い印象を持っていなかったと言う。そして、無事同大学で化学を学び卒業する。
教授はすこぶる厳しい人たちだったようだが、その厳しさによって森田氏の真理を追究する姿勢が育まれた。また、異国の地で多文化に触れ、多くの人々の影響を受けつつ暮らし、学んだことが、共助の心を育んだのだろう。
のちに、「自助自立」と「三方良し」の精神で、二度の倒産を乗り越え、地道な努力の積み重ねによって、株式会社ニイタカを東証一部上場の優良企業に育て上げる、名経営者となるのである。
■誰もが一度は目にしたあの固形燃料の名は「カエン」
ちなみに、ニイタカという社名は知らずとも、ほとんどの方がその製品を使った経験があるはずだ。
旅館などで提供されるお膳には、たいてい一人用の小鍋がある。火をつけて、ちょうどいい具合に煮立った頃合いで燃え切るあの固形燃料と、そのコンロと小鍋は同社が開発したものだ。正確に言えば、固形燃料「カエン」の燃焼効率をベストに保つため、容器の内径や鍋底との間隔、吸気口のサイズを調整し、酸素の供給量をコントロールすることで安定的に煮炊きができるアルミ製の「みちのく鍋」&「丸コンロ」も開発。私たちが宴に興じている間、人知れず実に誠実な仕事をしている彼らこそ、ニイタカが誇るドル箱商品なのである。
その「カエン」も、お客様の要望に応える形で改良を繰り返してきた。当初は一斗缶に14kg分のカエンを流し固めたものを販売していたが、仲居さんがスプーン等を使い目分量で取り分けるため量にばらつきが生じ、煮えない等の苦情となった。この問題に対処するために、一定の大きさに角切りして提供したところ大いに喜ばれ、さらに蒸発を防ぐためにシュリンク包装した「スーパーカエン」、アルミカップに入れ燃焼後の後片付けも楽になった「カエン ニューエース」となり、現在に至っている。
同社はそもそも業務用洗剤を製造販売する化学メーカーで、新高油脂から不採算部門を切り離す形で、界面活性剤部門が独立。わずか9人で1963年に創業した。
当時、さまざまな公害が社会問題化していたことをご存知の方も多いだろう。全国各地で合成洗剤が下水を通じて河川に流れ込み、泡が大量に発生する泡公害が広がる中、同社は生分解性の高い(水中や土中の微生物により分解されやすい)環境にやさしい洗剤「マイソフト」を開発。製造原価率が80%前後と、にわかには信じられない薄利に苦しみつつ、不断の努力でお客様第一主義を貫き通す。
■社会に優しくすることで、みんなが豊かになる
結果、二度の倒産を経験するのだが、そんな同社を取引先が支え、給与の遅配も「新高小切手」と呼ばれた証文を社員が預かることで支払いを担保しつつ、苦難もなんとか乗り切った。そして、70年代半ばにもなると大型バスでの団体旅行や研修旅行が大ブームとなる時流に乗り、前出の「カエン」が全国的に売上を拡大。経営基盤を築くことに大きく貢献する。
同社は今や売上150億を超え、経常利益も11億を超える(2017年5月期)優良企業に成長。実直経営を続ける同社の軌跡を書いた『どん底企業から東証1部へ――二度の倒産から東証一部上場を果たした企業の成長の要諦』は、多くの企業にとって学びとなるのではないか。
(新刊JP編集部)