【「本が好き!」レビュー】『甘い蜜の部屋 』 森 茉莉著
提供: 本が好き!少女モイラはまるで蜘蛛のよう。蜂蜜色で異様に可愛らしく良い匂いのする蜘蛛。半透明な幕で覆われた巣の中にぐったりと横たわり、無心な媚態に吸い寄せられた男を甘い蜜のような糸で絡めてゆく。母はモイラを産む時に亡くなり、父・林作は芸術品を制作するかのようにモイラを育てあげる。林作にとってモイラは小さな恋人であり、心の奥深くでは、娘が「パァパ」との愛情のつながりを生涯持ち続け、その深く優しい関係から決して抜け出せないことに、甘い蜜のような予感を抱いていた。
戦前の上流家庭を舞台に、異性の親子関係の濃密すぎる絆が生む悲劇を、ロマンを漂わせつつ格調高く官能的に描き出した作品と言えよう。趣味よく上品なしつらえの閉め切った部屋に坐り、飾られた百合の花の甘く湿った香りに酔わされるような感じだ。他者への思いやりを徹底的に欠いた娘の出来上がるまで、蕩けるようにセクシーで魅力的だが自分しか愛せない娘に惹かれてゆく男たちの不幸、それらの出来事の向こう側から密かに微笑む男がいる。「うむ。上等、上等。こんな娘はどこにもいまい。そして、この娘は誰よりも俺のものだ。」そこには、父性の神聖な微笑みと、悪魔の薄笑いとがかろうじて均衡を保っている。
娘は父親を誰よりも好いているが、「愛」とは違う。モイラの心は薄い硝子で覆われているようで、他者の喜怒哀楽はその硝子を通して入ってくると希薄になり、硝子を通って出て行くモイラの感情もぼやけている。感覚が鈍いようでいて自分の好悪だけには敏感に反応し、嫌いなことには激しく反発する。出来る限り我儘を許してきた父との世界は、まさに甘い蜜の部屋である。その部屋にあるのは単に父と娘の親しみで、肉体的な危うさがあるわけではない。それなのに、この父娘関係には微妙な危険と陶酔が混ざっている。本書は、こうした“異性”の関係を描き出した類まれな小説である。
コオルド・ビイフ、ポテト・サラドゥ、ウェストミンスタアの香(にお)い。独特の言葉づかいが、この作品を遠い国の美しく残酷なおとぎ話のようにも感じさせる。 いくら愛しても愛されない苦しみに修行僧のごとく耐え、様々に追い込まれてゆく男たち。彼らを哀れと思いながらも、「しかたがない奴め。」と薄く笑って娘を見やる父。肉体の繋がりよりも血の繋がりは強いものなのか。必要とされることへの絶対の自信があり、見返りを求めることのない父の愛には、どんな男も勝てないということなのか。思えば、著者も父の掌中の珠であった。どこからか「お茉莉や、お茉莉。」と微笑みながら呼ぶ森鴎外の声が聞こえてくる。
(レビュー:Wings to fly)
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