「老害認定」される人とされない人 その決定的な違いとは?
歳を取れば誰でも、自分よりも若い層の価値観や考え方、行動に理解がついていかなくなるもの。それは仕方のないことなのだが、だからといって自分の若かった頃の価値観を声高に主張したり、若い人の行動を頭ごなしに否定したりすると、彼らからは「老害」と判断されてしまう。
加齢は誰にでも平等に訪れるが、「老害」と見なされる人とそうでない人がいる。できるだけ「老害」にはなりたくないと思う人もいるだろうし、「老害」と呼ばれても気にしない人もいるかもしれない。
◾️なぜ人は「老害」と呼ばれてしまうのか
『「老害の人」にならないコツ(平松類著、アスコム刊行)は、年長者の行動や考え方が「老害」と見なされるメカニズムや、老害と見做されない人になるためのポイントを解説していく。まず知っておきたいのは、「誰でも歳をとること」、として「歳をとった自覚がない高齢者が非常に多いこと」である。
人は自分の老いを、さまざまなところで感じ取る。老眼になった、足腰が弱くなった、物忘れがひどくなってきた、といったところである。ただ、逆にいえばその程度。人は少し目が悪くなったり、歩くのが遅くなったりしたくらいでは、自分を「老いた人間」だとは認めないのである。
もう一つ、覚えておきたいのは、体力にしても、記憶力にしても、五感の鋭さにしても、一様に衰えるわけではないということ。人それぞれ、衰えが出やすい部分もあれば、さほど衰えない部分もある。記憶力は若い頃とさして変わらないが、耳が遠くなったという人もいれば、視力はいいが、記憶力が衰えたという人もいる。
問題は、そうしたムラのある老化現象の中で、人はさほど衰えていない部分を基準にして「自分はまだ大丈夫」と思いがちな点だ。記憶力は落ちているのに、視力はいい人であれば、「自分はまだ目がしっかりしているから大丈夫」と考え、自分の老化を受け入れられないのである。
一方で、若い人たちは、そんな高齢者の「衰えた部分」が目についてしまう。どう見ても衰えているのに、本人だけが「まだまだ若い」と思い込み、周りに負担を強いたり、頭ごなしに年少者を否定したりする。そこに「老害」という概念が生まれる温床があるのだ。
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なぜ、そしてどんな行いによって人は老害と呼ばれてしまうのか、そして老害と呼ばれないためにはどうすればいいのか。また、ちょっとしたことで老害とレッテル貼りする社会の側に問題はないのか。本書は近年跋扈する「老害」という概念の周りにあるさまざまなテーマを解説、考察していく。
誰もが暮らしやすい社会を作るために、そして何より自分自身が暮らしやすい世の中にするために、一読すべき一冊だ。
(新刊JP編集部)