だれかに話したくなる本の話

【「本が好き!」レビュー】『アドルフ』バンジャマン・コンスタン著

提供: 本が好き!

貴族の青年アドルフは、姻戚関係にあるP伯爵の邸宅を訪れ、そこで伯爵の愛人であるエレノールと出会う。彼女に惹かれたアドルフは熱心な求愛を繰り返し、初めは拒んでいたエレノールもついにほだされる。だが、P伯爵と子供を捨ててアドルフを選ぶとまでいう彼女を重荷に感じるようになり……

青年が年上の女性と恋に落ち、やがて別れるまでを描いた、十九世紀フランス恋愛小説の古典だ。十七世紀に書かれたラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』が、複数人の恋愛がらみのエピソードを矢継ぎ早に繰り出して共感を誘う読者投稿型掲示板スタイルだったのに対し、本作は主役二人の関係の推移にフォーカスしたひとり語りブログのようになっていて、筋があちこちに逸れていくことがない。その分、恋人たちの心理分析に尺が割かれ、彼らの選択や行為は都度つぶさに分析され、発せられたことばの意味も表から裏から検討される。    読みどころはこの分析の鋭利さだ。ほとんど一ページごとに、膝を打つような洞察があらわれるので、物語自体に新奇さがなくても、そして主人公の行動のすべてを肯定したり共感したりはできなかったとしても、このような泥沼状態であればまさにこのように感じることであろうという有無を言わせぬ説得力があるため得心しながら読み進めることができる。  過去の、価値観の異なる時代に書かれた小説の登場人物が、であるにもかかわらずまるで今を生きるひとのようだと感じるのはままあることだろうが、この作品もまた現代の読者の目から見て心理描写に無理がなく、耳もとに語り手の息づかいが聞こえ、温かな血のながれを感じる。

作者のコンスタンは、執筆から十年を経たのちに付せられたまえがきで、本書がもはや自分にとっては“本当にどうでもいいことになってしまった”と記す。“わたしはこの小説をいっさい評価していない”と。

コンスタンにとっての執筆後の十年間がどのような意味を持っていたのかについて、訳者はある仮説を提出する。プライヴェートで関わりのあった女性との別離からの影響を見て取る、それはそれで魅力のある文学的な解釈だが、個人的には、もっと散文的な雑事の積み重ねにより記憶と情熱が褪色していっただけではないかと思える。年表を見る限り、大層多忙なひとだったようだ。

必要に駆られておこなった人間関係や心理の分析が、当人にとって大切な意味を持つ期間は案外に短い。過ぎてしまえば、なぜ懸命に思惟を凝らしたかわからなくなってしまう。当時書いたものが意味するところは理解できても、そのようなことを書かねばならなかった情熱の依って来るところがもはやわからなくなる。

かつて存在した熱い感情のうねりの虚構を介した記録として、コンスタンは本書を遺した。誰にも、人生のある一時期にしか書けない文章があるのだろう。

(レビュー:ときのき

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アドルフ

アドルフ

将来を嘱望された青年アドルフは、P伯爵の愛人エレノールに執拗に言い寄り、ついに彼女の心を勝ち取る。だが、密かな逢瀬を愉しむうちに、裕福な生活や子供たちを捨ててまでも一緒に暮らしたいと願うエレノールがだんだんと重荷となり、アドルフは自由を得ようと画策するが…。

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