【「本が好き!」レビュー】『空へ―エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか』ジョン・クラカワー著
提供: 本が好き!先日、エベレストの本を読んでいてこの本をまだレビューしていなかったなと思った。
これは米国のアウトドアー雑誌のライターで自身がハードなクライミングを実践する登山家でもあったジョン・クラカウアー(以下、ジョンと呼ぶ)による、1996年5月にエベレストで起こった大量遭難事故のルポタージュである。
この遭難事故は二つの点で日本でも注目された。第一にこの遭難はニュージーランド人のプロ山岳ガイドが募集した、日本ではまだ珍しかった国際公募隊が起こした事故だったこと、第二には遭難者に日本人女性の難波康子さんが含まれていたことだった。難波さんは日本人女性としては田部井さんに次いで二人目としてエベレストの山頂に立ち、下山中に凍死した。著者のクラカウアーは公募隊によるエベレスト登山を取材するために隊のメンバーになっていて、遭難事故をまじかで目撃することになった。
ジョンがこの本を書いた動機を述べている。それによると、雑誌社との約束に従い記事にまとめたが、締め切りまでに確かめられなかったことや、ページ数の制限で書けなかったことが多かったからだと。彼自身が、書いてしまわないことには遭難事故のトラウマから逃れられないと思ったからかも知れない。
エベレストの初登頂は1953年5月29日だったが、1985年にテキサスの大富豪がガイドを雇って登頂してからは、エベレストは先鋭的なクライマーが目指す山ではなくなり、プロガイドが主催する公募隊が増えて行った。1996年春の登山隊は全部で30隊だったが、その内の10隊は営利目的の公募隊だったという。
この本に出てくる主な公募隊は著者が参加したロブ・ホール隊とロブの友人でもあったスコット・フィッシャーの隊だが、両者の顧客はまったく異なった。スコット隊のメンバーは皆8000m級の登山経験者で、中にはK2に登った往年の名クライマーもいた。一方のロブ隊はジョンも含めてほとんどがヒマラヤの未経験者だった。メンバーの難波さんもクランポン(アイゼン)を使ったアイスバーンの登攀は未経験らしかった。
そんなメンバーでもエベレスト登頂が可能だったのは、ロブ・ホールらが組み上げたシステムのおかげだった。具体的にはルート工作をすべてロブ隊のシェルパらが行い、他の隊も含めて登山者は難所にロープを固定したり梯子をかけたりの作業を免除される。ただし他隊はロブに費用を払うというものだ。ルート工作以外にもロブ隊のシェルパは顧客の使うテント、酸素ボンベなどの資材を予め荷揚げし、顧客は身一つで登り、着いたらシェルパの用意したテントに直ぐに潜り込めるようになっていた。
ジョンも登山中は固定ロープで安全を確保し、メンバー同士でロープを繋ぐことはなかった。お互いに技量を知らない者同士なので、ロープで繋いだら安心して登れなかったろう。
こう書くと楽ちん登山のようにも聞こえるが、初めて高所登山を経験したジョンはまったくそうではなかったという。エベレスト登山とは山の中にいる間中ずっと苦痛を耐え忍ぶことを意味する。彼も高度順応中にひどい頭痛と吐き気に苦しんだ。
ロブ・ホール隊とスコット・フィッシャー隊はともに5月6日にBCを出発し、9日の夜にはサウスコルのC4に集結していた。C4にはシェルパ達により登頂し下山するために必要な酸素ボンベが担ぎ上げられていた。皆C3からは酸素を吸い続けていた。
9日の深夜0時頃にロブ・ホール隊とスコット・フィッシャー隊のメンバーは頂上に向けて登り始めた。この夜、台湾隊も含めて総勢33名のクライマーが頂上を目指していた。これが後に大渋滞を引き起こす。
実は登り始めた時すでに問題が発生していた。今年は9日までまだ誰も頂上に到達していなかったから、ロブ隊とスコット隊は自分たちで頂上まで固定ロープを張る作業をしなければならなかった。そのためにロブはスコットと打ち合わせてシェルパを先行させてロープを張る作業を行うことにしていたのだが、なぜか実行されなかった。なぜそうなったのか、ロブとスコットが亡くなってしまっため真相は分からないままだ。
C4を出てから3時間のところで、ロブの顧客の一人が「今日は山の様子がおかしい」といって下山していった。そして運命の5月10日の朝がきた。
まだ固定ロープが張っていないので途中で渋滞が起きていた。固定ロープを張る役目のスコット隊のシェルパは命令を無視して、一人の女性客に付きっきりだったからだ。仕方がないのでガイドの一人がロープを張ることにした。
隊長のロブはいつもなら山頂までのタイムリミットを事前に設定して、それまでに登れなかったら撤退すると決めていたが、今回の登頂についてはタイムリミットを明確にしなかった。そこでロブの顧客の内の3名は自分たちの判断で登頂を諦め下山することにした。渋滞がひどくて見切りをつけたのだろう。ロブ隊の8名の顧客の内4名はこの時点で勇気ある、結果からみれば適正な、撤退となった。
ジョンが11時に南峰に達した時、前方のヒラリーステップで渋滞が生じていた。シェルパは一人だったのでルート工作を始めるつもりがなかった。仕方がないので3名のガイドとジョンの4人でシェルパから受け取ったロープを張って行った。ジョンは自分の酸素ボンベが空になりかけているのに気が付き、ルート工作の途中だったが自分だけ一足先に登頂させてもらう。
ジョンはこの日、先頭で登頂した。時刻は午後1時を少し回っていた。直ぐに下山を開始したが、ヒラリーステップの渋滞で1時間以上待つ間に酸素が切れた。難波とロブが登ってきたが、ロブから5人目の顧客が登頂を諦めたと聞かされた。結局ロブの顧客で登頂できた3名の内、生還できたのはジョン一人だった。この時、南斜面に雲が沸き上がってきていたが、その危険性に気が付いた者は少なかった。
ジョンはガイドなしで先頭で下山することになったが、C4にたどり着く前に嵐に巻き込まれた。やっとテントに潜り込んだが、彼より後に登頂した皆はまだ嵐の中で下山途中であった。嵐の中で酸素もなくなった10名がC4でテントの位置が分からずにビバークすることになり、難波さんが亡くなることに。さらに上部ではロブ・ホール隊の顧客の一人と若手ガイドとロブ自身が亡くなり、スコット・フィッシャー隊ではスコットが亡くなった。
しかし1996年シーズンのエベレストでの死者は全部で12名であって、例年より少ないくらいだったというから、この遭難事故は特別に悲惨だったとはいえないようだ。エベレスト登山は危険なもので死亡する確率は3%程度あるという。しかし一緒に登った仲間を身近で失った者の心の傷は容易には癒えないという。
僕は間違っても高所登山はしないけれど、国内の普通の登山コースでも今ではガイド付きの公募登山があって、時に死亡事故を起こしている。登山者は危険があっても登りたいと思うものだし、ガイドが止めなければ登って事故を起こすこともある。一方、お金をもらってガイドする身になれば、多少は無理をしてもお客の要望に応えようとする。そんな風にして事故は起きるのかもしれない。ロブ・ホール隊の顧客の中には自らの判断で危険を察知して下山した人たちがいたが、登山者の鑑と言えるのかもしれないなあ。
(レビュー:三太郎)
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