【「本が好き!」レビュー】『あちらにいる鬼』井上荒野著
提供: 本が好き!真二(小田仁二郎)は、朝帰りに、そのままわたしを抱き寄せた。一晩中飲み歩いていたはずなのに、みょうになんの匂いもしなかった。・・・布団を抜け出して朝風呂に浸かり、身支度を整えてすぐ、出かけた「わたし」の名前は、長内みはる(瀬戸内晴美)。その日の夕方、徳島で出版社主催の講演会で、わたしと、気鋭の小説家である、白木篤郎(井上光晴)と、やはり小説家の、岸光太郎(大江健三郎)の三人で話をすることになっていた。
「わたしは徳島生まれ」生まれ故郷での講演会、懇親会も終わって、帰りの飛行機で隣の席に座った白木は、わたしを相手にトランプ占いを始めた。わたしの希望は、仕事のことだったが、そこで「この数年で、あなたの書くものが変わるはずだ。そう言われるとわかるでしょう。」と彼は言った。・・・
「私」は白木の妻で、名前は笙子(郁子)。ロシア語教室の生徒だったが、今は辞めていて、五歳の娘、海里(荒野)がいる。徳島から帰ってから、一週間後、みはるからの著書が数冊はいった小包が届き、篤郎はいつもは私に書かせている礼状を自分でさっさと書いて、私に出すように頼んだ。文面はどうということはない礼状だった。
ある日、わたしは突然篤郎の家を訪ねた。「団地を書こうと思っているので、見学に来ましたの・・・」しかし、その日は何もなくて、駅まで見送ってきた篤郎は、ほっとしたように「まあ、じゃあ、がんばって書いてください。こんどゆっくり酒でも飲みましょう」と言って別れた。
そして、今度は篤郎が、突然午後八時過ぎにわたしの家にやってきて。一緒に酒を飲み、あっという間に数時間が経ってしまい、日付が変わる頃「じゃあ、また飲みましょう」といって、自分の家から出ていくように帰っていった。
真二から別れたわたしのところに、白木はよくやってくるようになり、クリスマスケーキをぶらさげてきた夜、しばらく飲んでから、私たちは笑いながら寝室へ行った。抱きあったあと二人ともすっかり空腹になって、外へ食事に出ることにした。・・・そういう男を、私はすでにどうしようもなく愛していた。
このようなことが繰り返されて、みはると篤郎は、深みに入っていきます。しかし、これらは、わたしと私という一人称で話が進み、しかも、わたしの出てくる場面には私は名前で登場しています。そして、それを私の娘が書いているのが、この小説です。〈繰り返される情事に気づきながらも心を乱さない篤郎の美しい妻〉と解説に川上弘美が書いているのも、蓋し当然かもしれません。哀しいお話です。
(レビュー:くにたちきち)
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