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【「本が好き!」レビュー】『ソラリス』スタニスワフ・レム著

提供: 本が好き!

この作品を最初に読んだのは、1965年刊の飯田規和訳による『ソラリスの陽のもとに』でしたが、沼野充義の手になるポーランド語オリジナルからの初訳かつ完訳である本書を実際に手に取ってまず感じたのは、その厚さ=長さの差でした。『愛を超えて』と題された訳者解説を読んで分かったのですが、『ソラリスの陽のもとに』はロシア語からの重訳であり、かつ当時の検閲でカットされた部分もあり、「全部合わせると私の概算でざっと四百字詰め原稿用紙40枚分」が今回追加されたとのことでした。全体として原稿用紙550枚ほどの作品で、これがあるとないとでは、大違いになるはずで、事実、私のおぼろげな記憶をたどっても、読後の印象は『ソラリスの陽のもとに』とはまったく異なっていました。

よく知られた物語とは思いますが、簡単に紹介すると、ソラリスという二つの太陽がある星には、巨大な海が存在していて、それが生物なのか心があるのかということに関して、科学者の間で長年論争が行わており、ソラリス学という呼び名も定着していました。ある時、宇宙ステーションからソラリスの海に向けてX線を放射した結果、不思議なことが起こります。調査のため地球から派遣された「私」ケルヴィンは、三人いた宇宙ステーションの住人の一人が自殺し、残っている二人も自室に閉じこもりがちで、ケルヴィンに対して妙によそよそしく、何が起こっているのか説明しようとしません。そして、ケルヴィンが自室で一寝入りして、目覚めると、密閉された室内に「お客さん」が来ています。それは、10年前に自殺した妻のハリーでした。

さて、簡単に言うと、ソラリスの海は、宇宙ステーションに滞在する人間が眠っている間に、意識の奥底に眠っている記憶なり欲望を探り、それを具現化させるのです。ただし、それが何になるかは、意識を探られた本人には予期できません。ケルヴィンの場合はハリーでしたが、見るからにおぞましい怪物が「お客さん」になる場合もあります。そして、この「お客さん」は、それが帰属していた意識の持ち主から、長時間離れていることができませんし、そもそも生きていないので、死ぬこともありません。傷を負えば血も出ますが、すぐに自動治癒します。そして、常軌を逸した怪力の持ち主でもあります。狼狽したケルヴィンは、ハリーを小型ロケットに乗せて、宇宙へと放出する(他の乗組員も同じことを一度は試していました)のですが、一晩眠ると、ハリーはまた現れるのでした。

実は、この状況は、ハワード・ホークスが制作し実質的に監督もしたと言われている映画『遊星よりの物体X』(1951年)と、その原作ジョン・W・キャンベルによる『影が行く』(1938年)を連想させます。こちらの舞台は南極ですが、閉鎖された空間において、人間ではない何かが、時には人間にしか見えない何かが徘徊し、そこにいる人間たちは、誰が本物の人間なのか、疑心暗鬼になるというシチュエーションは、そっくりです。レムが、こちらの映画なり小説なりを意識していたのかは、もちろん分かりませんが、本書のベースとなる状況は怪奇SFのそれであることは確かです。

ただし、これは本書の出だし部分であって、途中から雰囲気は一変します。これは『ソラリスの陽のもとに』でカットされていた部分の存在が大きいです。この部分は、ソラリス学をめぐる、正にハードSFが展開されていて、読後の印象が大きく違うのも、そのためです。実は、私はハードSFというやつが苦手で、それもあって真のSFファンではないのだろうと自分で思っているのですが、この部分を読み通すのに苦労したことは告白しておきます。ただし、これによって大きく浮かび上がってくるのが、本書のテーマはファースト・コンタクトであって、愛や喪失や癒しの物語ではないということです。個人的な感情を物語の中心に据えていないのです。それは主人公や他の乗組員の地球での過去をほとんど語っていないということからも分かります。例えば、ハリーが自殺したことは語られますが、それ以外のハリーとの思い出、ケルヴィンの苦悩については、ほとんど語られていません。言い換えると、本書は人類の未来をテーマの中心に、本書を原作とした二つの映画、タルコフスキーの『惑星ソラリス』(1972年)とソダーバーグの『ソラリス』(2002年)は人間の過去をテーマの中心としたものなのです。そして、これが、レムが、『惑星ソラリス』に満足していない理由でもあります。

「タルコフスキーは私の原作にないものを持ち込んだのです。つまり主人公の家族をまるごと、母親やらなにやら全部登場させた。それから、まるでロシアの殉教者伝を思わせるような伝統的なシンボルなどが、彼の映画では大きな役割を果たしていたんですが、それが私には気に入らなかった。でも映画化する権利はもう譲った後だったから、いまさら何を言ってもタルコフスキーの姿勢を変えられる可能性はなかったんです。それで喧嘩別れになり、最後に私は彼に『あんたは馬鹿だよ』とロシア語で言って、モスクを発った。三週間の議論の後にね」

これは、訳者解説で紹介されている、訳者が行ったレムとのインタビューの一部です。しかし、映画好きの立場から言わせてもらうと、タルコフスキーは『惑星ソラリス』以前に、『僕の村は戦場だった』(1962年、ヴェネツィア映画祭金獅子賞)と『アンドレイ・ルブリョフ』(1967年、カンヌ映画祭国際批評家連盟賞)で、国際的な評価も既に得ていた監督で、この二作とも既に、タルコフスキー生涯のオプセッションである母、水、火、林、犬、馬などロシアの大地への思いに彩られた作品なので、こういう風になってしまうのは予想できたはずです。それゆえ、レムのクレームの内容には100%賛同しかねるところがあります。要するに、宇宙に住む人間の話を作ったレムと、地球に住む人間の映画を作ろうとしているタルコフスキーでは、折り合うはずがないので、映画化契約を交わしてから文句を言っても仕方ないのではないでしょうか。

同じように、ソダーバーグの『ソラリス』もレムは気に入っていないようで、その文章も訳者解説に紹介されていますが、実はレムは映画を観ないで、その文章を書いているので、その姿勢だけで、個人的には賛同しかねます。よく言われるように、ソダーバーグの映画は、完全にケルヴィンとハリーのラブ・ストーリーになっています。それゆえ、ケルヴィンの妻との邂逅から自殺の現場に至るまで、主人公の過去を丁寧に描写していて、ソダーバーグの興味が過去の失われた愛の修復にあることは明白ですから、これもレムの世界と折り合うはずがありません。また、映画『ブレードランナー』(1982年)に登場する誰かの記憶を移植されたレプリカントという概念が、この映画の主人公の妻の姿に反映されていることは指摘しておきましょう。ただ、ハッピー・エンドなのかは、最後の場面で登場する主人公が、人間なのか、それともソラリスが作り出したものなのか、という観点で見ると不気味です。しかし、それはそれで、永遠の愛の成就になるわけではありますが。実は、ラスト・シーンで登場する主人公の実体が何なのかという謎は『惑星ソラリス』にも存在していますから、ソダーバーグはそれを意識したのかもしれません。なお、原作の方は一人称で書かれていますから、主人公は常に人間です。

あと、作品は発表と同時に作者のものではなくなる、というのが私の基本的な考え方なので、原作と映画はしょせん別物だと思っていますから、映画監督としては作者の意図を気にしてばかりいる必要はないのだと思います。同じ題材とはいえ、小説と映画では表現の仕方も全く違います。『ソラリス』の場合、作家と二人の映画監督が目指していたものは全く違っていたのですから、全く別物になるのは当然ですし、各々独立した作品として評価すべきだと思います。

ところで、『エデン』(1959年)『砂漠の惑星』(1964年)と本書のことを、私は「未知との遭遇」三部作と呼んでいますが、世界的に一番人気があるのは間違いなく本書でしょう。その理由は、現在の地球人にうったえる内容を持っているからでしょう。二度の作者の意図を反映していない映画化は、結局のところ、作者の意図が読者にあまり理解されなかった結果とも思えるのです。レムの小説としては、実は、その分かりやすさと派手な戦闘シーンゆえに『砂の惑星』が個人的には一番気に入っています。

『惑星ソラリス』もタルコフスキーとしてはベストの映画ではないでしょうが、冒頭のいかにも彼の映画らしいロシアの自然の描写もそうなのですが、宇宙ステーションが一時的に無重力状態になり、図書室にいたケルヴィンとハリーが本と一緒に空中遊泳をする美しい場面は、タルコフスキーの撮った名場面の一つでしょう。ソダーバーグは、あまり好きな映画監督ではないのですが、その中では『ソラリス』は気に入っている方です。私はセンチメンタルな映画が好きなのです。

(レビュー:hacker

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本が好き!
ソラリス

ソラリス

ほぼ全域を海に覆われた惑星ソラリス。
その謎を解明すべくステーションに乗り込んだ心理学者ケルビンのもとに今は亡き恋人ハリーが現れる……。
「生きている海」をめぐって人間存在の極限を描く傑作。

タルコフスキーとソダーバーグによって映画化された新世紀の古典、ポーランド語原典からの新訳刊行!

この記事のライター

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