【「本が好き!」レビュー】『優しい語り手: ノーベル文学賞記念講演』オルガ・トカルチュク著
提供: 本が好き!オルガ・トカルチュクはポーランド出身の女性作家で、2018年度のノーベル文学賞受賞者です。
ノーベル文学賞のポーランド出身の作家としては5人目、女性作家としては15人目の受賞者だそうです。
この本は、トカルチュクがノーベル文学賞を受賞した際の受賞記念講演「優しい語り手」と、それに先立って、2013年に来日したときの講演「「中欧」の幻影は文学に映し出される──中欧小説は存在するか」を所収しています。
ポーランドという国に、みなさんはどんなイメージをもつのでしょうか。
私は個人的には、まず優れた芸術家を多く輩出した国、というイメージをもっています。
特に音楽の分野では、ピアノの詩人・ショパンの作品に心打たれる人も多いのではないでしょうか。
そして歴史の中で、侵略・分割を余儀なくされ、ホロコーストによる犠牲の大きさも、強く記憶されるこの国の歴史です。
では文学においてはどうか、と聞かれると、個人的には、まったくと言ってよいほど、無知でした。
この本を手に取ったのも、ほとんど偶然で、書店を歩いていて、平積みにされていた、この本の表紙の美しさと、標題に惹かれて購入しました。
個人的な感想(もとよりそれしか語れないのですが)としては、まず、一読して、著者に対して、同時代に生まれて同時代を生きている人間としての理屈抜きの共感を感じました。
そして、文学というものの存在価値について、さらに、これからの文学の在り方について、標題通り、優しい語り口ではあるけれど、 力強く、静かな希望を湛えた言葉が綴られています。
インターネットの発達によって、言葉はより多様化した価値観を伝え、様々な動機、複雑な意図によって日々膨大に紡ぎだされています。
世界は言葉で満ちていて、すべてが語りつくされようとしているはずなのに、何か大切なことが語られないままに、誰もが混沌の中を、漠とした不安を抱えながら、物語を探しています。
そんな言葉の大海のなかで、溺れることなく、よりよい未来を紡ぎだす力のある言葉を生み出し受け取るためには、何かが足りない、それもまた誰もが感じていることだと思います。
トカルチュクはその理由を、
「一言で言って、わたしたちには、世界を語る 新しい方法が欠けているのです。」
とスッパリと言い切ります。
トカルチュクの言う「新しい方法」とは、それはもちろん、不況の時代に大衆を熱狂させた政治的なプロパガンダや、不安な状況に、強烈な帰依によって救いの道に集約させる宗教的な救済の言葉ではありません。
むしろもっと平凡な、誰もが日々の生活の中でやりとりする言葉の中から、文学という表現様式によってそのエッセンスが掬い上げられるという意味での、人と人とを対等に結ぶ、言葉そのもののもつ力に対する信頼がその底にあるのだと思います。
その信頼の上に、もっと今を生きる現代の人々が、言葉によって理解し合え、公正に共存することが可能な世界について語る方法を、トカルチュクは、新しい文学の表現形式として追求しようとしているように思えます。
近代文学は、まずは一人称から始まります。
それは、トカルチュクも述べているように、個としての「私」と対立するものとしての「世界」の間で起きる運命をどうとらえるか、という命題をめぐる物語です。
ただ、現代の文学に求められる命題は、もっと別のところにあることは、別に文学者でなくても一般の生活者も強く感じていることだと思います。
つまり、今まで人間がもっていた世界というものに対する感覚は、「私」対「あなた」そして、「私」対「世界」という関係性の中のなかで、どう生きるか、という問題でした。
しかし今は、「私」対「不特定多数」、「私」対「現実世界あるいは仮想世界」、そして「私」の中の「意識」対「無意識」のように、さらに混沌としてつかみどこががないものとの関係性の中に生きている、という感覚です。
そういう、対象のはっきりしない問題の所在、原因の特定さえ難しい問題、あるいは問題として果たして存在しているのかどうか不明な、顕在化し難い問題に対して、人間が文学を共有することで心の問題としても、現実の問題としても、解決する糸口を提供することができるのかどうか、という問い立てを、この講演の中でトカルチュクは行っているように思います。
そして、彼女自身、その糸口となる方向性を、この講演の中で語っています。
「わたしはこのところ、ずっと考えつづけてきました。
こんにち、あたらしい物語の基礎を見つけることは可能でしょうか。
普遍的で、全体的で、すべてを含み、自然に根差していて、 豊かに状況を織り込み、同時にわかりやすい、そんな物語の基礎を。」(本文p35)
「そしてわたしは、新しい種類の語り手を夢見ています。
それは「第四人称」とでも呼ぶべきもので、むろんなんらかの文法的構成を担うにとどまらず、みずからのうちに登場人物それぞれの視点を含み、さらに各人物の視野を踏み越えて、より多く、より広く見ることのできる、時間だって無視できる、そんな語り手です。」(本文p35)
トカルチュクの言う「第四人称」という語り手の具体的な姿は、もちろん、作家でない私には、想像することも難しいのですが、その視点のもつ意味、意図というものを理解することはできます。
そして、作家がこの「第四人称」という視点をもった語り手を具体的に生み出す礎となるもの、それをトカルチュクが「優しい」と表現していることに、私自身は個人的に、表現する者はもちろん、普通にこの世界を生きていく人間にとって、必要な礎のように感じました。
「この神秘的で優しい語り手とは、奇跡的かつ意味深長なものと考えられます。これはすべてが見える視点、視野なのです。
そしてすべてが見えるということは、ある究極的な事実の認識を意味します。
つまり、存在するすべてのものは、相互につながり、一つの全体をなしている、という事実です。」(本文p37)
「優しさは、愛の最もつつましい形です。福音書や聖歌には登場しない、それにかけて人が宣誓したりしないし、それで表彰されたりもしない、そういう種類の愛です。紋章も象徴も持たず、人を罪にも嫉妬にも導きません。
それはわたしたちが、べつの存在、つまり「私」ではないものを注意ぶかく集中して見るときにあらわれます。」(本文p42)
「優しさは、自発的で無欲です。それは感情移入の彼方へ超えゆく感情です。それはむしろ意識です。あるいは多少の憂鬱、運命の共有かもしれません。
優しさは、他者を深く受け入れること、その壊れやすさや掛け替えのなさや、苦悩に傷つきやすく、時の影響を免れないことを、深く受け入れることなのです。」(同)
「優しさは、わたしたちの間にある結びつきや類似点、同一性に気づかせてくれます。それは世界を命ある、生きている、結びあい、協働する、互いに頼りあうものとして示す、そういうものの見方です。」(同)
かなり長い引用でしたが、彼女の文学の本質を、作家自身の言葉で知ってほしいと思い、紹介しました。
この部分だけ引用すると、現在の厳しい社会情勢等に照らし合わせると、少し楽天的すぎるという批判もあるかもしれません。
しかし、トカルチュクがくしくも語っているように、今はまだ存在していなくても、存在するかもしれないなにかよいもの、優しいものの「予兆を与えること」、 その行為こそが、文学が担うことであり、そうすることで、それが多くの人が想像可能なものにすること、そしてやがてはそれが存在していくことにつながるのだと、彼女の言葉を読んでイメージすることができました。
中欧、という日本とはまた違った歴史的な背景をもつ独自の文化圏から生まれたトカルチュクの言葉は、インターネットによって一つにつながりながらも、ますます混沌とした不安な世界という大海のなかで、一つの凛とした灯台のように、私たちの道しるべの役割を担ってくれるように感じられました。
(レビュー:菅原万亀)
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