だれかに話したくなる本の話

本当に公平か?「実力主義」の残酷さ

性別や民族、人種によって人生のチャンスに差が生まれたり、経済力に格差が生まれる社会についてどう思うかとたずねられたら、多くの人は「よくない」と答えるはず。

性別差別、人種差別に道徳的な問題があることは、少なくとも今の日本では共通認識になっているし、現にそういった不均衡をなくす方向に(まだまだ道半ばとはいえ)世の中が動いているのは間違いない。

ただ、それが実現した時、誰にとっても平等な社会が訪れるかというと、そうとは限らない。『無理ゲー社会』(橘玲著、小学館刊)は「持てる者と持たざる者」の新しいレイヤーの出現を示唆する。

■「自分が本当に劣等であるという理由で、自分の地位が低いのだと認めなくてはならない」

属性による差別を廃して機会平等を実現したとしても、大学入試から就職試験まで「競争による選別」はなくならない(競争があるから機会平等が必要だともいえる)。属性や社会階級によって競争の優劣をつけてはいけない。あくまで見るべきは本人の「実力」なのだ、というのが「実力主義」「能力主義」の考え方だ。

これは一見、公平に見える。少なくとも実力(=才能+努力)で競い合える社会は、属性によって社会での位置づけが決まってしまう社会よりはマシには思える。

ただ、考え方によっては、実力主義社会は属性や階級で社会階層が決まる社会よりも残酷かもしれない。

階級社会では、自分が成功できない理由を社会制度の責任にできる。だがメリトクラシー(実力主義社会)では、すべての人に公平に機会が開かれているのだから、「自分が本当に劣等であるという理由で、自分の地位が低いのだと認めなくてはならない」のだ。(『無理ゲー社会』より)

「此の親にして此の子あり」という言葉があるように、人の才能に遺伝的要因がかかわることは否定できないし、才能を努力で補う意欲や方法を、家庭環境や育児環境などさまざまな要因で身につけられなかった人もいる。実力主義の名のもとに、彼らを「能力が足りないのは自己責任」「努力すれば報われる。報われないのは努力が足りないから」とひとくくりに切り捨てることに問題はないのかという点は、意見が分かれるところではないだろうか。

もちろん、どんな親のもとに生まれるかでその後の人生が決まるわけではない。ほとんどの人は自分に与えられた才能を受け入れて、自分に思いつく限りの努力をすることで運命を切り開いていくことができる。それでも、機会平等によって全員が同じスタートラインに立てるようになるわけではなく、圧倒的に不利な条件下で実力競争に巻き込まれ、そして振り落とされる敗者が生まれる。そしてその勝敗はその人の経済力に直結する。

『無理ゲー社会』で描かれているのは、今の社会が見なかったことにしている不都合な真実だ。才能がある人と、才能の不足を努力で埋められる人は自分らしく生きることができる。しかしそれ以外の人はどう生きればいいのか? 現代社会の生きにくさの一端が明らかにされた一冊だ。

(新刊JP編集部)

無理ゲー社会

無理ゲー社会

才能ある者にとってはユートピア、それ以外にとってはディストピア。誰もが「知能と努力」によって成功できるメリトクラシー社会では、知能格差が経済格差に直結する。遺伝ガチャで人生は決まるのか? 絶望の先になにがあるのか? はたして「自由で公正なユートピア」は実現可能なのか──。

13万部を超えるベストセラー『上級国民/下級国民』で現代社会のリアルな分断を描いた著者が、知能格差のタブーに踏み込み、リベラルな社会の「残酷な構造」を解き明かす衝撃作。

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