【「本が好き!」レビュー】『レストラン「ドイツ亭」』アネッテ・ヘス著
提供: 本が好き!1945年のニュールンベルグ裁判は日本でも有名ですが、1963年にフランクフルトで行われ、「300人を超える証人が召喚され、ガス室による大量虐殺や、親衛隊韻による拷問や虐待を詳細に語ったことで、ドイツ人は初めて、強制収容所で何が行われていたかを知った」(訳者あとがき)アウシュヴィッツ裁判のことはあまり知られていないのではないでしょうか。TV界の脚本家として活躍していた、1967年生まれのアネット・ヘスが2018年に発表した処女長編である本書は、この裁判を背景にしています。
本書の内容を簡単に紹介します。
時代は1962年のクリスマス前、24歳のヒロイン、エーファは、フランクフルトでレストラン『ドイツ亭』を営んでいる両親、姉、弟と暮らし、店の手伝いをしながら、空いている時間で、特技であるポーランド語の通訳をやっていました。彼女の目下の最大の関心は、有名な通販会社社長の息子ユルゲンとの結婚でした。お互いに愛し合ってはいるものの、両家族の貧富の差、保守的なプロテスタントであるエーファの家庭と、会社創業者の父親が共産主義者であったユルゲンの家庭の雰囲気の差など、本人たち以外の要因が気になる二人でした。
そんなある日、予定していた通訳がポーランドから出国できなくなり(当時、西ドイツとポーランドは国交が樹立されていませんでした)、急遽ポーランド語の通訳が必要になった、フランクフルトで行われるアウシュヴィッツ裁判の通訳を、エーファは頼まれます。迷ったエーファですが、両親やユルゲンに相談すると、こぞって反対されます。しかし、裁判が始まり、冒頭で検察による21人の被告人に対する罪状陳述を聞いたエーファは、そのあまりの惨い内容に、この仕事を引き受ける決意をします。準備として何をすべきかと尋ねたエーファは、こう言われます。
「殺人に関する単語をたくさん覚えてくるように」
推測できるように、エーファは、この裁判にずっと立ち会うことで、幼少時代の自分の失われていた記憶を取り戻し、両親の触れてほしくない過去を暴き出す結果になるのです。ただ、裁判での証言に関しては、既に我々には知識のある事柄が中心で、先日読んだ『カフェ・シェヘラザード』と比較すると、証言も裁判という不自由な形式でなされていることから、迫真性という点では劣ります。その代わり、時間が経っていない分、証人たちが体験を話す苦痛の大きさの描写が印象に残ります。なお、本書で語られている証言は、実際の裁判記録から収集したものだそうです。
本書で最も痛ましい証人は、アウシュヴィッツ到着時に自分とその家族が「選別」されていることを知らず、家族に重労働を課せられるのを避けるために、結果的にガス室送りになるグループに妻と娘たちを送り込むように親衛隊員に嘆願した男で、弁護側からその時の状況に関する詳細な質問を繰り返され、証言が続けられなくなってしまいます。ノーベル文学賞を受けたハンガリーのケルテース・イムレが自らのアウシュビッツ体験を綴った『運命ではなく』(1975年)でも、作者自身がアウシュヴィッツ到着直後「選別」されていることにまったく気づいていなかったことが述べられており、少なくとも、この証人が妻子と別れた日、1942年11月1日時点では、収容所でここまでひどいことが行われているということを、ユダヤ人社会はあまり認識していなかったのは事実だと思います。実際に、アウシュヴィッツ収容所が開所したのは1940年5月であり、ガス室が作られたのは1941年、ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』で記述されている、ヒトラーをはじめとする要人たちが参加し、ユダヤ人に対する「最終的解決」を議論したヴァンゼー会議は、1942年1月20日に開かれており、そこから急速にジェノサイドが進んだのでしょう。いずれにしろ、収容所で行われていたことは、人間の想像力を超えていましたし、そこから帰って来た人間もいない状況では、実態が広く知れ渡ることはなかったのです。
また、なんで今更こんな裁判をするのだ、触れてほしくない過去に触れることはないだろうという、当時のマスコミや一般大衆の反応も本書では描かれており、現在の日本を振り返ると、その点も興味深いです。
ただ、残念なことに、本書は、こういう歴史的事実を掘り下げるというよりも、普通のドイツ人であるエーファや姉の恋愛の方に相当数のページを割いています。というのは、本書の主眼は、過去の歴史的事実を知ったヒロインの人間的成長を描く方に向けられているようで、ヒロインと姉のハッピーエンドもそうですが、すぐそばで何が行われていたかを知りつつ何もしなかった人間たちへの強い糾弾もなく、これらが、全体の印象を弱めています。
本書の原題は 'Deutches Haus' で、もちろんレストランの名前なのですが、Haus は英語の House に当たるわけで、「ドイツの家」という広い意味も持ちます。邦題も、ですから「ドイツの家」でも良かったと思います。ちなみに、英語のタイトルは 'The German House' となっていて、定冠詞をつけることによって、原題で隠れている部分を強調しているように思えます。ただ、本書の内容には、そこまでの広がりは感じられません。いろいろと興味深い視点もある本なのですが、全体印象とすると、まとまりと深さに欠くように感じられたのは残念でした。
(レビュー:hacker)
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