【「本が好き!」レビュー】『複眼人』呉明益著
提供: 本が好き!海の上をぷかぷか浮きながら漂う島といえば、我々の世代は『ひょっこりひょうたん島』を思い出すが、時代が変われば、物事は変わるものだ。近頃では廃プラスチックが寄り集まってできたゴミが島となって漂う。「二〇〇六年ごろネットで、太平洋にゆっくりと漂流する巨大なゴミの渦が現れ、科学者にも解決の手立てがないという英文記事を読」んだのが、作家にこの小説を構想させたようだ。
複数の人物が登場し、それぞれの人生の物語を紡いでいるが、一人選ぶとするなら、台湾生まれの作家志望の女性アリスになるだろう。文学博士号を取得し、ひとり出かけたヨーロッパ旅行で、デンマーク人の探検家トムと出会い、トムはアリスを追って台湾にやってくる。二人は結婚し、ストックホルム市立図書館を建てた建築家アスプルンドの「夏の家」に想を得た「海辺の家」を海岸沿いに建てて暮らし始めたころ、思いがけずトトを授かる。
問題は、探検家というものはひとつところにじっとしてはいられないということだ。台湾のめぼしい山を登り終えると、トムはさらなる冒険を目指し、家に居つかなくなる。二人の間に距離が生まれ始める。そんなある日、山に出かけたまま、父と息子は二度と戻らなかった。トムの遺体は捜索隊のダフに発見されるが、トトは今に至るも見つかっていない。愛する者の喪失から立ち直れないアリスはすべてを放り出し、自殺を考えている。それが物語の発端である。
もう一人の主人公ともいえるアトレは、ワヨワヨ島という、南太平洋の小島に生まれた若者。水や土地、樹々といった資源に乏しい島では、島に残れるのは長男だけで、二番目に生まれた子は、時が来ると自作の船に乗り、食料と水が尽きればそこで終わり、という死出の旅に出る。ところが、気力、体力に恵まれたアトレは死を免れ、大海に漂うゴミの島に漂着してしまう。溜まり水を飲み、廃棄物から銛や釣り針を作り、生き物を捕えて生き続けた。
そんなとき、台湾を地震が襲う。「海辺の家」にいたアリスは、波間に浮かぶ板切れに乗った仔猫を助け上げる。皮肉なことに、自殺を考えていたアリスは、仔猫の命を助けたことがきっかけとなり、絡めとられていた死の罠から逃れることになる。近くでバーを営むハファイは、そうしたアリスの変貌に気づく。自ら好んで周囲から孤立した暮らしを続けるアリスだったが、その周りには、ハファイやダフといった、アリスを気遣う仲間がいた。
台湾に限らず、気候変動は世界的な問題になってきている。物語のヤマ場で、地震が台湾を襲う。その力がゴミの島を台湾に衝突させる。科学的に見れば、地震ということになるが、無文字文化の中で育ち、大古から伝わる神話と昔話の中で育ってきた若者にとっては、何か大きな力によって、知らない世界に放り出されたようなものだ。その中でアリスとアトレが運命的に出会う。言葉の通じない二人だったが、通じるものはあり、アリスは傷ついたアトレを看取る。
何か大きなものから死を拒まれた二人の新しい生が始まる。作家を目指すアリスは、世界を言葉や文字で理解しようとして生きてきた。アトレはちがう。彼にとっては目で見て、手で触れるものが世界であり、それは今、ここだけでなく大古から続く神が創り出した世界である。彼の知る唯一の世界であるワヨワヨ島は、他を顧みない人間の営為が神の怒りを呼び、罰として、限られた資源の中で限られた者しか生きられない世界であった。
生まれた世界が異なる二人が共に生きることで、少しずつ互いの世界を理解し合い、言葉を共有しあうようになる。アリスは、喪失の痛みに絡み取られていたそれまでの自分の生を見直すことができるようになる。そして、アトレを道案内にして、トトが遭難した登山ルートを自分の足で確かめるため、あれほど嫌いだった山に登ろうとする。物語とは言わば、何かをきっかけにした主人公の変容を語るものである。
これは煎じ詰めれば、最愛の者を失い、自らを失いかけていた主人公が、「まれびと」によって新しい生を得る物語だ。そして、再び動き始めたアリスを通して、読者はトムとトトの死の真相を知る。それは、小さな人間の生死を越えた、もっと大きく根源的な世界との出会いを教えてくれる。語られることは多く、その世界の射程は地球規模に大きい。捕鯨やアザラシ猟の持つ問題、地球環境の保全、といった数多の問題が複数の登場人物によって背負われて、物語の中で犇めき合う。
比較的、親日的な台湾だが、日本人にとって台湾の問題は他人事として眺めていられるものではない。本作の中で、重要な脇役を務めるハファイは阿美(アミ)族、トムの捜索活動を担うダフは布農(ブヌン)族という先住民。日本や漢人の支配によって苦杯を嘗めさせられてきた人々である。ハファイは人を癒し、ダフは山を知る。彼らには民族に伝わる、生きる力や知恵が備わっており、島を傷つける力に抗し、傷をいやすものとなっているようだ。
『歩道橋の魔術師』、『自転車泥棒』の作者、呉明益による、近未来を描くSF、ファンタジーとも読める、ストーリー・テラーの才を遺憾なく発揮した長篇小説である。多くを詰め込み過ぎているような気もするが、連続短篇小説のつもりで読めば、複数の人物が織りなす多彩な物語の饗宴を愉しむこともできる。日本語の朝の挨拶である「オハヨ」と名づけられた仔猫が、大きな美しい雌猫に育ったところで、物語は幕を閉じる。「激しい雨が今にもやって来る」とハファイの歌う、ディランの『Hard Rain』が時代を越えて、胸に迫る。
(レビュー:青玉楼主人)
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