だれかに話したくなる本の話

【「本が好き!」レビュー】『舎弟たちの世界史 (韓国文学セレクション) 』イ・ギホ著

提供: 本が好き!

聞いてくれたまえ。
これは、この地の救済不能の独裁者のひとり、全斗煥将軍が国を統べていた時代の話だ 。

ということは、三十年余りの歳月を経た話ということになる。しかし、歳月なんぞ毒にも薬にもならないということを、我らが主人公が身をもって証明してくれる。彼は、その頃からいまに至るまで、依然として指名手配中の人物だ。

こんな書き出しで始まる物語は、時代の狂気に呑み込まれて、人生をめちゃくちゃにされた一人のタクシー運転手の物語だ。
いや、より正確に言うならば、ナ・ボンマンという名のそのタクシー運転手もまた、語りあげられた歴史物語の中に登場する人物のひとりでしかないのかもしれないが。

とにかくまず、聞いてくれたまえ。
1980年、全斗煥将軍が大統領に就任した。
ほんの1年ほど前まではごく普通の陸軍少将だった彼が、突如独裁者の道に足を踏み入れたのは、ノワール映画の主人公になったがためだった。

驚かないでくれたまえ。
つまりはこうだ。
全将軍は捜査官として、独裁者の殺人事件を捜査しているうちに、自らが独裁者となってしまったというのだ。
そしてこの全斗煥大統領のもと、大々的なアカ狩りが繰り広げられ、家族を養うため、自らの保身のため等、様々な理由を抱えた捜査官たちが、なんらかの成果を上げる必要に迫られることになった。
その結果、でっち上げ逮捕が数多く発生したというのだ。

そうこれは、ノワール映画の我らが主人公[独裁者]と、その兄に怯える〈舎弟たち〉が繰り広げる悲喜劇。

しがないタクシー運転手ナ・ボンマンは、身に覚えのない国家保安法がらみの事件に巻き込まれ、政治犯に仕立て上げられてしまい、胸に秘めたささやかな夢も平凡だったはずの人生そのものも木っ端みじんに砕かれてしまうのだった。

軍事政権下における社会の、そして人々の、様々な矛盾を描き出すというシリアスなテーマを扱いながらも、小難しさとは無縁で、こういうテーマをこんなにも読みやすくわかりやすく書き上げることが出来るのかと驚くほどの軽妙さ。

ユーモラスな語り口で笑いを誘い、読み手に「ふーと長く息をして」「肩を回して」「ここでちょっとトイレ休憩を」などと肩の力を抜くよう促しつつ語りあげるのは、不条理な時代に翻弄される平凡な一市民の人生を描いた物語。

安心してくれたまえ!
これはもう何十年も前の出来事を土台にした物語なのだから!
たとえそういわれても、そうと割り切れないものがある。
面白かった!と読み終えた後に残る背中がゾクゾクするような余韻が、読者が抱える現実社会への不安を刺激し続ける。

いやはやこれはまたまた恐れ入った。
イ・ギホ、その作品にハズレなし。
この作家、これからも追いかけるぞ!と、決意を新たにした。

(レビュー:かもめ通信

・書評提供:書評でつながる読書コミュニティ「本が好き!」

本が好き!
舎弟たちの世界史 (韓国文学セレクション)

舎弟たちの世界史 (韓国文学セレクション)

短篇集『誰にでも親切な教会のお兄さんカン・ミノ』(斎藤真理子訳、亜紀書房)で話題をさらったイ・ギホ。
執筆に5年を費やした著者渾身の傑作長篇、ついに日本上陸!

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