だれかに話したくなる本の話

「ミスター・デンジャー」松永光弘が明かす飲食店危機の乗り越え方

1989年、FMW後楽園ホール大会で日本初の「有刺鉄線デスマッチ」を行うなど、プロレスラーとして活躍した「ミスター・デンジャー」こと松永光弘氏。各団体で激闘を繰り広げる一方、1997年にステーキハウス「ミスターデンジャー」をオープン。2009年にプロレスラーを引退してからは、ステーキ店の店長として奮闘している。

ただ、飲食業界といえば、新型コロナウイルスの感染拡大で多くが危機に立たされているのは、すでに周知のとおり。今年、オープン24年目を迎えた「ミスターデンジャー」も例外ではない。

■「ミスター・デンジャー」松永光弘が明かす飲食店危機の乗り越え方

「ミスターデンジャー」もまた、2週間以上にわたる長期休業を余儀なくされたという。

ただ、この店はこれまでにも何度もピンチを乗り越えてきた。2001年の狂牛病騒動はステーキハウスを直撃するものであったし、2008年のリーマン・ショック、2011年の東日本大震災でも売り上げが激減した。それでも、さまざまな策を練って困難を打開してきた。

『デスマッチよりも危険な飲食店経営の真実―オープンから24年目を迎える人気ステーキ店が味わった―』(松永光弘著、ワニブックス刊)では、失敗を何度も繰り返し、そこから学んだこと、どんなピンチも創意・工夫で乗り越えてきた、松永氏のサバイバル哲学が紹介されている。

表紙

2001年、日本国内で初の狂牛病が発覚した時を見てみよう。松永氏の店は、全ての牛肉をアメリカからの輸入肉で賄っていたので最初は「そこまで影響はないだろう」と考えていたが、国産かどうかにかかわらず、「牛肉を食べるのは危険だ」という世間の空気ができてしまったことで、客足は離れてしまう。

そして、国内の狂牛病騒動が収まってきたときに、今度はアメリカでも発生が確認され、アメリカからの輸入が全面的に禁止されてしまう。この事態を予想し、輸入肉を買いだめしていたが、キープできるのは数ヶ月分。時間稼ぎはできても、いずれは輸入禁止の影響を受けるのは予想できる状態だったという。

ステーキ屋であれだけ儲かったのは、アメリカからの輸入肉が安かったから。その肉の価格が高騰したら、利幅は大幅に減ってしまう。アメリカからの輸入牛に代わる肉はオーストラリア産。けれど、オーストラリア産の牛肉は、当時それまでの仕入れ値の3倍に高騰していた。ギリギリまで粘るも、デンジャーステーキの値上げをすることを松永氏は決断する。

「シレッと値上げしてもこれはダメだな」と考えた松永氏が、大威張りで値上げを告知する方法を考えた結果編み出したのが、「自虐広告」だった。「音(値)上げ宣言」と大書きされたタペストリーに「牛肉高騰に音を上げて…恐縮ながら値を上げました」のキャッチとともに「お安く見やがって!」と怒る牛に松永氏が踏みつけられるイラストが描かれている。

このタペストリーは、思いがけなく「バズる」ことになった。常連のウケも良く、店の前を通りがかった若い女性たちが写真を撮り、SNSで「こんなバカな看板がある」と拡散したことで、新規客獲得につながったのだ。

さらに、松永氏は狂牛病騒動を乗り越えるべく、次々と策を仕掛けていく。格安で入手していた肉の部位の入手が難しくなり、今までのボリュームを維持できなくなると、さらに安い部位の肉を仕入れ、今まで以上に手間暇をかけ、これまでと同じくらいに柔らかさを再現。加えて、「再値下げ」を実施。1980円だったセットメニューを2300円に値上げしていたが、2000円に値下げ。収益は下がるが、お客さんが離れていくことを阻止した。

狂牛病騒動の経験から、すぐに「こうしよう!」と決断し、実行に移すことの大事さを松永氏は学んだという。「どうしよう、どうしよう」と迷っていたら、同業者に先を越されてしまう。状況をよく見て、即断即決することが大切なのだ。

(T・N/新刊JP編集部)

デスマッチよりも危険な飲食店経営の真実 - オープンから24年目を迎える人気ステーキ店が味わった -

デスマッチよりも危険な飲食店経営の真実 - オープンから24年目を迎える人気ステーキ店が味わった -

狂牛病騒動、リーマンショック、新型コロナウイルス…どんなピンチも創意・工夫で乗り越えてきた“ミスター・デンジャー”が明かす、固定概念をブチ壊すサバイバル哲学!

この記事のライター

現在調査中…

T・N

ライター。寡黙だが味わい深い文章を書く。SNSはやっていない。

このライターの他の記事