だれかに話したくなる本の話

『一人称単数』村上春樹著【「本が好き!」レビュー】

提供: 本が好き!

はじめに断っておくが、僕はこれまでの人生の中で一度たりとも女性にモテたという経験がない。もっともこれはおおかたの男性にとっては、とくに珍しいということでもないと思う。「勉強ができてスポーツ万能」なんていう男子は、クラスの中でもほんの一握りの、限定された存在でしかない。運動が大の苦手で、成績もパッとしない僕などが、クラスの女の子からある日突然告白されるなんてことは、夢のまた夢といってよかった。

それから、いわゆる「合コン」と呼ばれるものにも僕は参加したことがない。もともと大人数で騒ぐのが苦手だったということもある。それから自分の「下心」を堂々とさらけ出しておちゃらけるのもどうにも抵抗があった。非モテな学生時代を送ったおかげで、ずいぶんと性格がひねくれてしまったのだけかもしれないが。


「今日、女の子と飲むんやけどな。お前も来てくれんか」

同室のタカワキがそう声をかけてきたのは、鏡の前で慣れぬネクタイに悪戦苦闘している真っ最中でのことだった。僕はあごを大きく上げたままの姿勢で思わず眉をしかめた。タカワキは鏡を覗き込みながら「まあまあ」というように、僕の肩を二度三度叩いた。
「ほんまは別のやつを誘ってたんやけど、そいつが具合悪くなっちまってな。まあ、人数合わせと思って、気楽に来てもらえばええから」
そう言って、タカワキは鏡に映る僕に向かって両手を合わせ、拝むようなしぐさをした。それから僕の両肩をつかんで自分のほうに振り向かせると、緩みきった僕のネクタイの結び目を素早く整えた。
「ほら、できあがり。行こか」
そう言うと、僕の返事を待とうともせず、タカワキは扉を開けてとっとと部屋を出ていった。

高校を卒業した僕は、大学へは進学せずに、地元名古屋で広告会社に入社した。名古屋駅近くの支社勤務となったわけだが、スタッフはせいぜい二十名ほどの小さな事務所だった。それでも当時は、ずいぶんと羽振りがよかったのかもしれない。全国に散らばっている新入社員を東京の本社に集めての「一斉研修」というものがあった。僕たちは二週間ほどビジネスホテルに缶詰めにされて、わけのわからない、今でいうワークショップのようなことをさせられた。

「こんなん意味あるんかいな」
研修が終わると、タカワキはいつもそうぼやぎながら、首元に指をからめて、さっさとネクタイを外して床に放り投げた。シュシュっという小気味よい音が、薄暗いホテルの部屋の中に響いて、消えた。その手慣れた感じが、僕にはうらやましく映った。
タカワキは大阪支社の人間だった。年齢はたしか僕よりも二つほど上だったと思う。バブル景気直前の浮かれた時代だったから、広告会社に限らずどこも人手不足で、企業は新卒、中途問わず、いくらでも人を雇った。タカワキは、以前は宝飾店に勤めていたらしい。

――村上春樹の新作短編集『一人称単数』を読みながら、僕はそんなことをつらつらと思いだしていた。それはこの短編集に収められた作品の多くが、十代の男の子を主人公にしていること(回想というかたちをとっているものの)、それからいささか奇妙な女の子と、それにまつわる奇妙で理不尽な物語であるからだと思う。僕はこの作品集を読みながら、どんどんと主人公(男の子)にシンクロしていった。まるで自分自身の物語が語られているかのような、不思議な感慨(あるいはノスタルジーのようなもの)におそわれた。

そうしてふとタカワキのことを思い出したのだった。そしてあのとき出会った奇妙な女の子と、それにまつわる奇妙な体験のことを。その体験は、十代の僕にそれなりに大きなインパクトを与え、そしていまだに僕はそのときに受けた傷のようなものを確実に引きずっている。たった一晩の出来事にしか過ぎないのだけれども、その「何か」がひとの一生を左右する、ということはあり得る。僕はこの『一人称単数』を読んで、改めてそのことに思いを巡らせた。

〈「恥を知りなさい」とその女は言った。〉(書下ろし「一人称単数」より)

――そうなのだ。僕は今でも、タカワキを通じて出会ったあのときの女の子から、そう詰め寄られているような気がしてならないのだ。

(レビュー:ホンスミ

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一人称単数

一人称単数

短篇小説は、ひとつの世界のたくさんの切り口だ。6年ぶりに放たれる、8作からなる短篇小説集。

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