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【「本が好き!」レビュー】『パラディーソ』ホセ・レサマ=リマ著

提供: 本が好き!

「旦君ほんとに『パラディーソ』やるんですか」

牛島信明から、本書の翻訳を引き継いだ時に、訳者旦敬介はこう言われたそうです。本書はキューバの詩人・作家ホセ・レサマ=リマ(1910-1976)が、生前に発表した唯一の小説です。本書に収録されている訳者旦敬介著『「パラディーソ」を読むために』によると、「ずっとやり続けていたわけではなく」「途中で完全に中断していた時期も長い」とのことですが、「15年ほどかけて準備をしてきて、実際に翻訳を始めたのは(中略)2001年の年明け」で「最終章をひとまず終えたのは2021年の3月なので、まさに20年以上かかった」という大仕事でした。この点は、レサマ=リマも同じ事情だったようで、1955年までに三分の一ほど書いて7、8年放置していたものを、母親に促されて再開したという経緯があるそうです。

さて、本書を読んでいて、連想した本としては、リルケの『マルテの手記』とフォークナーの『響きと怒り』があります。なぜなら、この三作とも、文学には読者という存在があることを、作家の側が意識していなかったのではないかと思わせてくれるからです。

『響きと怒り』については、早稲田大学教授だった橋本宏が「『兵士の報酬』と『蚊』の売れゆき不振によって、出版の引き受け手を容易に発見し得なくなったフォークナーが、半ば出版をあきらめ、ひたすら芸術家としての良心に従い、自己の心に横溢する創作意欲をみたそうとして執筆したものだといわれる。いわば、栄光や利益を無視したフォークナーが書かずにはいられなかった一つの心象を『苦悩と汗』によって描き出したのがこの『響きと怒り』であった」という文章を書いていますが、まさにその通りですし、それはレサマ=マリと本書の関係にも当てはまりそうです。

レサマ=リマも「文筆によって生計を立てたことは一度もなかった」そうで、文壇では知られていても、一般的な人気からほど遠かった存在ですが、初期のフォークナーは文壇でも無名の存在でした。また、名門家族を扱った題材もそうですが、面白い共通点としては、全14章の本書も、全4部の『響きと怒り』も、必ずしも章や部の順番通り読まなくても読めてしまうという点が挙げられます。実は、光文社古典新訳文庫で最近再読した『リルケの手記』でも、訳者松永美穂が「テクストはどこから読んでもいいし、飛ばしてしまってもいい」と述べており、更に面白いのは、旦敬介も、本書は「一部を完全に飛ばしてでも目覚ましい部分を読んだ方がいい」すなわち、本書を全部読む必要は必ずしもないという趣旨のことを言っていることです。ただ、『マルテの手記』は、様々な内容のテクストの集合体であるのに対し、本書は一応長編小説なので、これでいいのかと個人的には思ってしまいます。

この点に関しては、『響きと怒り』は違います。章の順番通り読まなくてもいいことは述べましたが、あくまでも全体をしっかり読むことが前提で書かれた作品ですし、そうでなければ、その魅力を味わうことはできません。この差は何かというと、執筆にかかった時間があるような気がします。本書ほどではないにしろ、『マルテの手記』も完成までに7年かかっていますが、『響きと怒り』はフォークナーが集中して比較的短期間で書き上げたもので、そういう熱気が作品全体からも伝わってきます。それに比べると、本書も『マルテの手記』も、そういう熱さとは無縁なように私は感じてしまいます。三作とも難解ではあるのですが、個人的な読みやすさという点では、断然『響きと怒り』になるのは、そのあたりが理由のようです。

そして、難解さという点では、本書は独特のものがあります。それについては、旦敬介が詳しく述べていて、それをここで繰り返すつもりはありませんが、内容の紹介というのも簡単ではないというより、ほとんど不可能でしょう。読んでいて、よく分からない比喩も多いです。もしかしたらスペイン語の韻を意識した言葉選びなのかと邪推したりするのですが、何らかの訳注が必要ではないかと感じるものが少なくありません。しかし、ただでさえ長い作品なので、細かく訳注をつけて、更にページ数を増やすわけにはいかなかったのでしょう。一つだけ気づいた例を挙げておきます。

「イワン雷帝時代の正教会司祭のように見えた」

これは、エイゼンシュテインの映画『イワン雷帝』(1944年-1946年)のキャラクタが頭にあってのものでしょう。ただ、説明がないと、普通は分からないと思います。この類の表現が多いことが、本書をよけい難解というか読みにくくさせているようです。また、これは『マルテの手記』の哲学を語る部分もそうなのですが、本書の神学を語る部分など、宗教に興味のない私などは退屈なだけでした。そもそも、私自身が、教養小説と呼ばれるものに相性が悪いということも当然あると思います。

ところで、旦敬介はフェリーニの映画『8 1/2』(1963年)と『サテリコン』(1969年)を引き合いに出しながら、次のように述べています。

「この作品は、作品のテーマ自体が、一本線になった論理性や因果関係からの解放ということであるともいえる。なので、この作品自体も、因果関係や物語的連続性のないフラグメントが次々に放りこまれている部分がある。フェデリコ・フェリーニの映画『8 1/2』を見るように、それぞれの場面の快楽に没入していけばいいのだと僕自身も途中から思うようになった。というか、ぼく自身は長いこと『8 1/2』の面白さを理解できずにいたのだが、『パラディーソ』とのアナロジーにおいてとらえるようになって、その面白さをあじわうことができるようになったのである。そこからさらにアナロジーを進めると、『パラディーソ』はやはりフェリーニの『サテリコン』とも性的寓話の側面で深くつながっているように思える。レサマ=リマがこれらの映画を見ることがあったのかどうかは不明だが、同時代の作品であることは間違いない」

この文章の「作品のテーマ自体が、一本線になった論理性や因果関係からの解放」という主張は、分からなくはありませんが、私としては、長編小説というスタイルでこれをやるのは、やはり無理だろうと思ってしまいます。それと、フェリーニに関する記述は、明らかな事実誤認があります。『8 1/2』の公開は本書執筆開始より後ですし、『サテリコン』の公開は本書出版後です。また、『8 1/2』は、商業主義の映画の世界で自らの創造意欲をかきたてなければいけない映画監督の苦悩というはっきりしたテーマがあり、「因果関係や物語的連続性のないフラグメントが次々に放りこまれている」ような映画ではありません。ですから、フェリーニと本書のアナロジーという論点には疑問があります。もちろん、お互いにその存在を知らないのに、アナロジーを感じさせる結果になる場合があるのは承知していますが、作品の中身も違うので、これは当てはまらないだろうと思います。気になったので、コメントさせてもらいます。

さて、本書全般についてですが、安易にお勧めできる本ではありません。読書スピードは早いと自負し、並行して複数の本を読まない上、今は毎日が日曜日状態の私でも丸10日かかりました。途中で挫折する人も多いでしょう。繰り返しになりますが、私個人として本書で一番気になるのは、やはり熱気が感じられない点です。たまには、こういう難物と格闘するのも貴重な読書体験だと思いますが、執筆当時30歳前後であり、創作の熱さがこもっているフォークナーの『響きと怒り』の方が、はるかに好きな作品です。

(レビュー:hacker

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パラディーソ

パラディーソ

一家に君臨するホセ・エウヘニオ大佐と喘息持ちで鋭敏な感性を持つ長男ホセ・セミ―、熱帯の光に満ち満ちた日々の中で、オラーヤ家とセミー家にもたらされる生のよろこびとふりかかるあまたの苦難、痛苦な愛と非業の死――典雅で混成的なクリオーリョ文化が濃密に漂う革命前のキューバ社会を舞台に、五世代にわたる一族の歴史を、豊穣な詩的イメージとことばの遊戯を駆使して陰影深く彩り豊かに描いた、20世紀の奇書にして伝説的巨篇。

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