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【「本が好き!」レビュー】『病魔という悪の物語 ―チフスのメアリー』金森修著

提供: 本が好き!

「チフスのメアリー」と呼ばれた女性をご存知だろうか。
メアリー・マローン。1869年生まれ、アイルランド系移民。少女の頃にアメリカに移住し、大人になってからは賄い婦として働いた。料理はうまく、子供の面倒見もよかった。勤め先は何度か変わったが、雇い主からは総じて、よい評価を得ていた。
だが、37歳の時、彼女の人生は急転する。1900年初頭、腸チフスが流行しており、死者もかなり出ていた。公衆衛生の専門家が腸チフス患者を複数出したある一家を調べていたところ、1人の賄い婦の関与が疑われた。その足取りをたどると、彼女が務めた先々でチフスの発生があったことが判明した。その賄い婦こそ、メアリー・マローンだった。
メアリー自身はチフスの症状を示していなかった。健康状態は良好でありながら菌を身体に持ち続ける健康保菌者=無症候性キャリアだったのだ。
ある日突然見知らぬ男が訪ねてきて、あなたは病気をばらまいているかもしれないから、糞尿のサンプルを渡せと言う。チフスに罹った覚えもなかった彼女は仰天した。専門家は何度も訪れたが、彼女は激しく抵抗し、格闘の果てに病院に収容されてしまう。排泄物を検査するとかなりの濃度の菌が検出され、メアリーは川に浮かぶ島の病院に隔離されてしまう。
それから死を迎えるまで、実に30年もの間、数年を除き、彼女は隔離状態に置かれることになる。

一度は解放されたものの、「今後は料理人として働かないこと」という条件付きだった。だが、数年後、彼女はやはり賄い婦として働いていて、感染源となってしまう。偽名を使っていたが、メアリーであることが露見し、彼女は再び収監される。その後は、自由の身になることはなかった。
再び賄い婦となった経緯ははっきりしないが、長年生業としてきたもの以外の職で生計を立てることは難しかったのかもしれない。

「チフスのメアリー」という呼称が使われたのは比較的早い段階からだったが、当初は彼女に同情的な見方も多かった。何せ、健康保菌者という概念がそれほど浸透していなかった時代である。彼女は病気を広めたかもしれないが、そこに悪意があったわけではない。 だが、後年、彼女の存在は徐々に象徴化していく。周囲に病気や害悪を垂れ流すものとして。
その死の直後よりも時が経つにつれ、50年代、60年代以降、その存在は創作に取り込まれ、都市伝説のようなものを生んでいく。はた目にはそれとわからず、社会に禍をもたらすもの、その1つの象徴となっていくのだ。

当時、チフスを撒き散らしたのはもちろん、メアリー1人ではない。多くの症候性、無症候性患者がいたわけだが、実は、彼女ほど長く収監されたものは他にない。そこにはおそらく、いくつかの偶然があった。彼女が独身であったこと。移民であったこと。貧しい賄い婦であったこと。弁護士や恋人などの支援者が亡くなってしまったこと。弱い立場の彼女はいわば「歴史のふきだまり」にはまりこんでしまったのかもしれない。
本書では、彼女の人生を丁寧に追っており、社会的背景も興味深い。

ちくまプリマー新書は、ヤングアダルト層をターゲットにしたレーベルで、本書も非常にわかりやすく読みやすく書かれている。
本書の発刊は2006年で、コロナ禍よりもずっと前のことだが、書かれている内容は現在の状況にも通じる部分があり、さまざま考えさせられる。

(レビュー:ぽんきち

・書評提供:書評でつながる読書コミュニティ「本が好き!」

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病魔という悪の物語 ―チフスのメアリー

病魔という悪の物語 ―チフスのメアリー

二〇世紀初め、毒を撤き散らす悪女として恐れられた患者の実話。エイズ、鳥インフルエンザなど、伝染病の恐怖におびえる現代人にも、多くの問いを投げかけている。

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